PHOTOESSAY 5

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(41)「65年という歳月」

 今年、広島の原爆死没者慰霊式・平和祈念式には、国連の潘基文事務総長や原爆を落としたアメリカ政府代表のジョン・ルース駐日大使、イギリスとフランスは臨時代理大使らが初参列した。原爆投下から65年、「核廃絶」という被爆者の願いがやっと世界に届いたのだろうか。
 秋葉忠利広島市長は平和宣言の中で「非核三原則の法制化と『核の傘』からの離脱」を訴えた。被爆国として核廃絶を訴えながら、アメリカの核に守られているという矛盾。さらには核不拡散条約(NPT)に未加盟の核保有国であるインドと原子力協定を結び、国民の批判を無視して原子力発電所を売り込もうとする 支離滅裂な民主党政権。被爆から65年が過ぎても日本の姿勢が定まらないのは情けない。
 被爆者の高齢化は進み、3月現在で被爆者健康手帳を持つ約22万8千人の平均年齢は76.73歳になる。広島と長崎の原爆忌に先立つ8月1日、東京でも第46回原爆犠牲者慰霊祭が品川区にある東海寺で開催され、200人を超える人たちが参列した。今年の参列者が多いように思うのは65周年という理由もあるだろうが、体力的に広島や長崎の被爆地まで行ける被爆者が少なくなったのではないだろうか。
 原爆犠牲者は日本人だけではなく、韓国や朝鮮、中国、さらには捕虜となった連合国兵士たちも含まれているということも忘れてならない。被爆を風化させないために、あの過ちを二度と繰り返さないために、何ができるかを考えるのは政治屋ではなく、私たち一人ひとりだという思いを強くした原爆忌となった。
 写真は8月9日、長崎での長崎原爆朝鮮人犠牲者追悼早朝集会で撮影したもの。潘基文事務総長は広島に先立つ8月5日、長崎を訪れて長崎原爆朝鮮人犠牲者追悼碑にも献花した。

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(42)「2011年」

 カレンダーを1枚めくっただけなのに、12月31日と1月1日が大きく違うのはなぜだろう。世間の騒動とは離れた場所で、命を紡ぐ営みは大晦日も元旦も関係なく続けられている。昨夜は久しぶりに新宿中央公園の炊き出しに顔を出した。凍える寒さの中、大勢の支援者が湯気の上がる温かい食事を配っている姿はいつも通りだったが、不景気の象徴のように路上生活者を報道していたマスコミの姿はほとんど見かけなかった。日本のジャーナリズムはいつの頃から流行を追っかけるようになったのだろうか。
 昨春、撮影をお願いした鹿児島の被爆二世から貴重な「罹災証明書」を見せていただいた。1945年8月9日に長崎で被爆した証明で、すでに亡くなった被 爆者の父親が保管していたものだ。原爆については多くを語らなかった父親が娘に残したメッセージを想う。被爆から66回目の正月を迎えた被爆者たちも残さ れた時間はあまり多くない。「平和は力によっては維持できない。それは理解によってのみ達成される」と言ったのは原爆とも無縁ではないアインシュタインだった。今年も全国を回って多くの被爆二世と思いを共有したい。

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(43)「原発はパンドラの箱」

 2011年3月11日東北地方太平洋沖地震で被災された皆様へ心からお見舞い申し上げます。
 マグニチュード9.0というこれまで経験したことのない大地震と、それに続く高さが10メートルを超えたという大津波は、天災というにはあまりにも無慈悲な試練をもたらした。しかし、その後の福島第一原子力発電所の事故はあきらかに人災だ。東京電力は「想定外」であれば責任が回避できるとでもいうのだろうか。原発事故を『不適合事象』と呼ぶ姑息な体質に信頼感などもてるはずがない。「発電の過程で二酸化炭素を排出しない原子力発電は地球温暖化防止の観点で、優れた発電方法」と東京電力が原子力発電の特徴として挙げている。原発をクリーンエネルギーと呼ぶ者もいるが、福島原発の事故で明確なように、事故が起きたときの放射能汚染や、通常の運転でも生じる核廃棄物の処理など、二酸化炭素とは比較にならない猛毒の放射性物質を発生させているのが原子力発電だ。
 私たち被爆2世の願いは2度とヒバクシャをつくらないこと。二酸化炭素の排出量だけを見て原発偏重に陥ってはならない。日本全国には55基もの原子力発 電所があり、政府の手厚い保護を受けてきた。すでに原発に対する安全神話は崩れ(近年では原発での事故隠しも明らかになってきている)、中国電力が山口県上関町に地元の声を無視して工事を進める上関原発など現在工事中のものも、震災後はその安全性に疑問が持たれて作業が止まっている。写真は来春の営業運転を目指して建設中の島根原発3号機だ。「日本で唯一、県庁所在地(島根県松江市)にある原子力発電所」として有名だが、写真を見てわかるように日本の原発はほとんど海岸に立地しており、ここでも改めて津波対策の検討が始まった。
 電力会社などの広報活動でクリーンな電力源としてイメージを作ってきた原発だが、実際はそのリスクの大きさから他の電力源に比べて土地の買収など設置コストは格段に高くつく。さらにその特殊な構造は多くの二酸化炭素を発生させている。メンテナンスでは下請け、孫請けの原発労働者が被曝の危険にさらされ、挙げ句の果てに原発から出る核のゴミは地中へ埋設処分するしか方法がないのが現状。しかし、その候補地すら決まらず(当たり前だろう)放射性廃棄物は貯まる一方だ。原子力発電所はもういらない。

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(44)「慰霊の日」

 2011年8月6日を広島で、9日を長崎で迎えた。広島の平和記念公園、長崎の平和公園や爆心地公園(原爆公園)は公園と名が付くものの、地中には未だ被爆者の遺骨が眠る墓地でもある。原爆忌は慰霊の日であるにも関わらず、右翼も左翼も拡声器で自分たちの主張を怒鳴るだけで被爆者への敬意が感じられない。「うるさい」「関わりたくない」と耳を貸さない市民がほとんどではないか。
 昨年、広島市教委が県内の小中高生に広島への原爆投下の年月日を質問したところ、正確に答えられたのは小学生33.0%、中学生55.7%という結果が出た。長崎の投下日にいたっては小学生がわずか4.5%、中学生で12.2%に過ぎなかった。記憶の継承が進んでいないのは被爆者だけを攻めるわけにはいかない。私たち被爆二世にも責任がある。被爆者の平均年齢は77.44歳、被爆者手帳の保持者は21万9410人(2010年度末)になった。残された時間は多くはない。
 このような状況の下で、6日の広島で行われた田母神元空幕長の講演内容が本人のブログに『三度目の広島講演を終えて』として書かれていた。そこには「被爆者、被爆二世など被爆関係者の中でも『日本は核武装すべきである』と考えている人も多い」とある。私はこれまで200人を超える被爆二世と直接会って、 またはメールなどを通じて話を聞いてきたが、その中で核武装を明言したのはたった一人だけだった。二世にも様々な考え方があるが、核武装を希望する被爆二世は決して多くはない。私もひとりの被爆二世として日本の核武装に反対だ。沈黙を肯定と誤解されないために明言しておく。

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(45)「いつまでも忘れない」

 昨年の漢字として選ばれたのは『絆』。その理由は「大規模な災害の経験から家族や仲間など身近でかけがえのない人との『絆』を再認識し、さらにソーシャルメディアの発達は国境を越えた『絆』が生まれた」とのことだった。私たちは多くの絆とともに困難を乗り越えて前へ進むしか未来はない。
 しかし、未来へ歩みながらも忘れてはならないものがある。朝日新聞が昨年連載した『原発とメディア』に登場した大石又七さん(第五福竜丸に冷凍士として乗船中に被爆)が「東日本大震災の後、ジャーナリズムは『広島・長崎・福島』と言うようになりました。しかし、なぜ、ビキニをとばすのですか。ビキニを忘れたことが、今日の状況を引き起こしたのではないのでしょうか」と話していた。ビキニだけではない。広島・長崎という言葉も、今年平均年齢が78歳となる被爆者の消滅とともに忘れ去られる危険性がある。過ちを二度と繰り返さないためにも記憶する作業が必要ではないだろうか。
 私は被爆二世として昨年発足した 「ノーモア・ヒバクシャ記憶遺産を継承する会」を応援したい。
 写真は昨年8月6日の夜、広島の平和公園で撮影したピースキャンドルと原爆ドーム。今も多くの遺骨が誰にも知られることなく平和公園に眠っている。たん に平和を唱えるだけではなく、被爆死没者たちへの慰霊も忘れてはならないだろう。そして、人類とか国民とか抽象的な概念ではなく、自分が最も愛する人を守るために何をしなければならないか、真剣に考える新年にしたい。与党・民主党は大企業にそそのかされて国内で未だ事故の収束が付かない原発を海外に輸出する愚かさに加えて、武器輸出三原則の緩和まで手を伸ばし始めた。その後は核武装、徴兵制、そして戦争までの道程はそう遠くない。

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(46)「消された写真展」

 本来ならば、今月26日から新宿ニコンサロンで『重重−中国に残された朝鮮人元日本軍「慰安婦」の女性たち』の写真展が開催されるはずだった。ところが、ニコンサロンは1ヶ月前の5月22日、「諸般の事情」を理由に突然中止を決定した。写真展の内容は「第二次世界大戦が終わって70余年、アジア太平洋沿岸の日本軍「慰安婦」被害者のハルモニは今もなお、胸の奥に戦争の苦しみと恨を抱いたまま生きている。特に1945年、戦争は終焉を迎えるが、朝鮮人として故国に帰ることができずに、中国の痩せ地に取り残されハルモニたちが、心にこびりついた恨を抱えたまま生きている」という歴史的事実にもとづいたドキュメンタリーだ。
「ニコンサロンは、写真文化の向上を目的とする写真展の開催にご利用ください。どなたでもお申し込みいただけます」とうたっており、2ヶ月に1度、経験豊富なプロカメラマン5名を含めた選考委員会が純粋に写真的な判断から選考、決定
、写真展開催を承諾している
・・・はずだった。ニコンサロンでの写真展開催は、報道カメラマンを目指す多くの若者にとって憧れの場であり、目の肥えた来場者との真剣勝負の場でもあった。
 それが慰安婦問題曲解する勢力による抗議の電話で写真展が中止された。まるで第二次世界大戦前夜のように表現の自由が脅かされる時代となった。憲法改悪の動きも関連しているであろう。あの戦争で亡くなった多くの人々のためにも、二度と繰り返してはならない歴史的事実として、この写真展開催を願う。

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(47) 「被爆マリア像」

 国防軍、憲法改正、さらには核兵器のシュミレーション。
 2013年、日本はどこに向かっているのだろうか。政権党に返り咲いた自民党・安倍首相が主張する「日本を取り戻す」とはいつの時代の日本なのだろうか。300万人もの同胞を殺したあの時代に戻ってもらっては困るのだ。
 長崎の浦上天主堂には、原爆の爆心地からわずか500mにありながら奇跡的に頭部のみが劫火から焼け残った木製の無原罪の聖母像(被爆マリア像)がある。1945年8月9日午前11時2分、浦上天主堂では神からの赦しを受ける告解の秘跡が行われていた。その場にいた司祭や信徒は全員即死。天主堂も一部の側壁を残しただけで全壊という状況の中から見つかった聖母像だ。現在は小聖堂に祭られている聖母像は、痛々しい火傷の跡を残しながらも、愚かな人間の破壊を赦し、再び過ちを繰り返さないように自ら訴えているように見えた。
 日本の未来を決めるのは政治屋ではなく国民・・・のはずだったが、先の衆院選では戦後最低の投票率だった。自分で自分の首を絞めているのと同じではないか。政治に文句を言う前に、大人には自分自身をもっと反省すべきではないか。
 2013年が子どもたちに希望を残せる1年になるように願いたい。

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(48)「ウリナラ」

 東京では今日、多くの小学校が入学式だった。ピカピカのランドセルを背負って満面の笑顔で未来への一歩を踏み出した子どもたち。TOPの写真は数年前に訪れた江東区枝川にあるウリハッキョ(東京朝鮮第二初級学校)の入学式。学校内での堅苦しい行事が終わると、満開の桜の下、近所のオモニやハルモニたちが準備してくれたお祝いの焼き肉パーティーが始まった。(ちなみにアボジやハラボジは飲むのが仕事だったような?)
 最近では私たち共通の宝である子どもの安全のために配られる防犯ブザーを朝鮮学校だけ除外しようとする動きがある。人命に差別を付けるなど許されないことだ。朝鮮高校の無償化除外問題も憲法14条の法の下の平等や子どもの権利条約など諸々の法律、条約に違反しており、世界中から批判を浴びている。
 そもそも在日はなぜ存在するのか。それは日本の国策のために労働力として故郷を離れなければならなかったからだ。また日本のアジア侵略も遠因として故郷が分断され、日本に残された人々だ。
 先月訪れた福井県坂井市の丸岡城には帰国記念の「朝日両国親善万歳」碑があった。帰国とは1950年代から約30年間に渡って行われた北朝鮮(朝鮮人民民主主義共和国)への帰還事業のこと。その内容については賛否両論があるが、当時、在日の人々への民族差別もあり、新たな夢を追って離日した。困窮の中で帰還せざるを得なかった人々への責任が日本にはあるだろう。
 しかし、いかなる理由があっても核開発は許されない暴挙だ。武力では何も解決しないことを私たちはさんざん体験してきたはずだ。人類と核兵器、原発は共存できない。北朝鮮の核開発にはどんな理由があっても反対する。

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(49)「靖国参拝」

 昨年末の安倍首相による靖国神社は多くの人が違和感を感じたことだろう。
 彼は「国のために戦い、尊い命を犠牲にされた御英霊に対し、哀悼の誠を捧げるとともに、尊崇の念を表し、御霊やすらかなれとご冥福をお祈りした」と説明するが、英霊が何かを理解しているのだろうか
「日本国家のため一身を犠牲にして戦い、不幸戦場でたおられた方々のみ魂を英霊ともうします」(滋賀縣護國神社、写真も
 中国も韓国もかつて総理大臣による靖国神社参拝について問題にすることはなかった。洋の東西を問わず、また資本主義とか共産主義とかのイデオロギーに関係なく、その国の指導者が英霊のために参拝するのは当たり前だからだ。しかし事情が変わったのは、1978年10月に靖国神社がA級戦犯を昭和受難者として合祀してから。戦場で倒れた兵士と、銃後で戦争を指揮した指導者とは決して相容れない。
 かつて帝国陸海軍の統帥権を持った大元帥であり、現憲法では日本国の象徴であり日本国民統合の象徴である天皇陛下も、A級戦犯の合祀以降は靖国神社親拝(参拝)を行っていない。先の昭和天皇、そして現在の今上天皇も合わせて天皇個人の意思として拒否している靖国神社の参拝をあえて行った安倍首相は「逆賊」と言われても仕方が無い。
 残念ながら選挙により自民党政権を選んだのは私たち自身、その責任はきちんと負わなければならない。今さら逃げることはできない。沈黙した時こそが本当の敗北、「決してあきらめない」を新年の抱負に、今年も正々堂々と前を向いて歩いて行きましょう!

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(50)集団的自衛権

 最近の集団的自衛権の議論には違和感を覚える。
 左翼も右翼も自分たちの都合の良いように自衛隊を持ち出してくる。1950年の警察予備隊、1952年の保安隊、そして1954年の自衛隊設立以来、私たちは常に政治に翻弄されてきた。忘れもしない昭和51年の夏、私自身、制服で外出中に石を投げられたこともあった。これ以上、政争の具にされるのはごめんだ。
 そもそも自衛官はサラリーマンでもなければ、単なる公務員でもない。入隊時に行う宣誓では「強い責任感をもって専心職務の遂行に当たり、事に臨んでは危険を顧みず、身をもって責務の完遂に努め、もって国民の負託にこたえること」を誓う。一朝有事の際には命を投げ出す覚悟ができている・・・はずだ。ただし一身を賭して守るのは家族や友人たち、そして市民や郷土であって決して政権与党ではない。政治家諸氏よ、勘違いしないでもらいたい。

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