PHOTOESSAY 4

essay31

(31)語り部

 今年も8月6日の広島、9日の長崎を訪れた。平日ということもあって慰霊式会場を除いて昨年よりも寂しい気がした。これが62年という時間の経過だろうか。 政府内部にも意図的に被爆の惨劇を忘れさせようとする動きがある。それは周辺諸国ににらみをきかせるために核兵器が欲しくてしょうがないからだ。国民はどこまで核に許容的か、政府高官の意図的で物騒な発言が続く。とうとう久間防衛相は「しょうがない」という原爆容認論を言わされて首が飛んだ。
 今年4月17日、選挙運動中の伊藤一長長崎市長が凶弾に倒れたのは記憶に新しいが、長崎では17年前も当時の本島等市長が銃撃され瀕死の重傷を負った。現在、85歳になる本島さんは、曲がった腰に杖をついて、8月9日に行われた爆心地公園での市民集会で「アメリカの核兵器に守られながら核兵器廃絶を言う日本はおかしい。この機会に日本人がどうあるべきかを深く考えて欲しい」(写真中央)と訴えた。
「長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」は平和祈念像の前で首相も参加して厳しい警備の中で実施されたが、まるで公共事業のように毎年大がかりな準備が行われる。(広島は「原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式」)その周りでは手づくりながらそれぞれに個性が栄える市民集会が開かれており、毎年楽しみにしている。 慰霊祭とは過去を振り返るためではなく、未来に向けて平和の誓いを約束する場ではないだろうか。自衛隊の海外派兵が本来任務化され、戦争はより身近な存在 となった今だからこそしっかりと未来を見つめたい。

2007年8月

essay32

(32)もう一つのワールドカップ

「第1回 FIPFA ワールドカップ2007」が10月7日から14日まで東京都江東区の東京スポーツ会館で開催された。世界7カ国から電動車椅子に乗った50人の選手が華麗なる妙技を披露した。どんなに重度の障がいがあっても手や足、アゴなどで電動車椅子を自由自在に操作してプレイができるのが電動車椅子サッカーの特徴。競技はバスケットボールコートで行われ、使用するボールは通常のサッカーボールの約1.5倍。1995年には国内で初めての「電動車椅子サッカー全国大会」 が名古屋で開催され、現在36チーム、351人が日本電動車椅子サッカー協会に登録している。性別や年齢、もちろん障がいの程度の制限もない。
 試合ではあの重い電動車椅子が転倒するほど激しいプレイが続出した。優勝はアメリカ、第2位フランス、3位ベルギー、日本は第4位という結果となった。 日本勢にとってワールドカップと国内大会のルールが異なったため、戦術的、そして体力的に負担となったようだが大健闘だったと思う。
 大会の結果はそれぞれのお国の福祉事情も反映している。海外では生活に十分ゆとりのある高性能の電動車椅子が無償、もしくはわずかな本人負担で取得できるが、日本では助成金や道路交通法などの制約も多く、残念ながら国産車は外車に比べて機能的に劣っていると言わざるを得ない。そのため日本人選手のほとんどが外車を使っているが、自家用車と同じ値段のものもあり、選手個人の経済的負担は大きい。また電動車椅子への理解が広まらずに練習場となるバスケット ボールのコートがある体育館がなかなか確保できない。
 それでも競技人口は少しずつではあるが増えてきている。目標は「プロ選手」だ。

2007年11月

essay33

(33)とんちんかん

 今年の干支はねずみ。エサの取り合いで天敵の猫からお仕置きを受けたのは自称ねずみ男のとしちゃん。新宿駅近くの甲州街道で人気者のとしちゃんは人生の大半を路上で暮らしてきた。「猫にあげてね」と通行人が置いていったエサをポリポリ、ポリポリ。さすがに堪忍袋の緒が切れたのか逆襲に出た一瞬だ。
 昨年秋に発表された大手企業の中間決算では過去の記録を更新する最高の増収増益が相次いだ。景気回復と言われてもピンとこない・・・どころか、生活保護の支給基準見直しが発表された。とりあえず1年先まで見送られることになったが「なぜ」という単純な疑問が湧いてくる。企業が儲かっているのはそこで働く社員やパート、派遣労働者の給料を抑制してきたためだろう。そのお陰で社会全体の生活レベルが下がって新たな貧困を生み出し、その不満のはけ口として生活保護がやり玉に挙げられた。儲かっている企業からお金を取るのではなく、厳しい生活を強いられている生活保護の受給額を減らすとはとんちんかんな話だ。
 また最近は新テロ対策特別措置法案について「世界貢献」がよく聞かれるが、これまで中国をはじめアジアの各国が嫌がる「靖国神社」参拝を強行し、同盟国とされるアメリカやカナダなどが「従軍慰安婦」に対する日本政府の責任を認めるよう求める決議案が採択されているのに馬耳東風というのはとんちんかんな話だ。
 いよいよ2008年の幕が開けた。今年はこの日本で餓死者がでないように、虐待で子どもや老親が殺されないように、また自衛官が他国の戦争に参加することがないように祈りたい。北京オリンピックのメダルの数なんてどうでもよい話だ。どんなに小さくても良いから、生きる喜びをみんなで分かち合える年にした い・・・。

2008年1月

essay34

(34)望郷の想い

 3月10日は東京大空襲が行われた日。300機を超えるB-29が無差別に東京の下町へ襲いかかり、死者・行方不明者を合わせると10万人以上の犠牲者を出した。昨年には「東京空襲犠牲者遺族会」の被災者や犠牲者の遺族たちが、日本政府に対して謝罪と損害賠償を求める集団提訴を行った。官尊民卑の伝統は今も続いており、民間人の戦争犠牲者への配慮はまったく無視されているのが現状だ。
 その犠牲者の中には約1万人の半島出身者も含まれていた。63年経った今も身元調査が民間の手で続けられており、これまでに175人が判明したが、植民地支配による創氏改名もあって調査は困難を極めている。3月8日には、東京都墨田区にある東京都慰霊堂で東京大空襲63周年朝鮮人犠牲者追悼会が営まれた。遺族探しと遺骨の返還が関係者の願いだ。
 被爆地の長崎で日本の戦争責任を追及し、韓国・朝鮮人被爆者の救済に努力されていた故・岡正治さんが「韓国・朝鮮人被爆者は日本人とは異なる二重三重の被害者であるが故に、日本人にもまして早急に手厚く救済されるべきだ」と言い残している。広島や長崎の原爆に次いで被害の大きかった東京大空襲でも、国交のあるなしにかかわらず救済責任を果たすのが加害者としての日本の責任だ。「拉致」は犯罪だ。それは追求されなければならないが、戦争中に日本が行った 「拉致」についても責任者の処罰と補償が未解決なのを忘れてはならない。

2008年4月

essay35

(35)被爆者の闘い

 広島と長崎への原爆投下から63年。全国15地域での原爆症認定をめぐる集団提訴で、これまでの6地裁の被爆者勝訴に次いで仙台と大阪の2高裁でも被爆者側が勝訴した。国は8連敗という事実を謙虚に受け入れ、ただちに控訴を取り下げて原告全員の救済を行うべきだろう。
 日本で被爆者運動や反核運動が盛んになるきっかけとなったのは1954年3月1日のビキニ事件だった。アメリカがマーシャル諸島のビキニ環礁で行った水爆実験で、アメリカが定めた危険区域外にいたはずの第五福竜丸の乗員23人をはじめ、856隻・約2万人が広島、長崎に次いで第三の被爆者となった。 1957年に施行された原爆医療法の案には当初、第五福竜丸の被爆者たちも含まれていたが、わずかな見舞金(補償金ではない)とともに政治的理由で被爆者から被曝者に区別され、その後は援護なき差別に苦しんできた。
 今年5月5日の丸木美術館開館記念日には元第五福竜丸乗組員の大石又七さんが来館、「ビキニ事件の真実」と題して、日本が国策として原子力技術と原子炉をアメリカから導入する見返りにビキニ事件を未解決のまま政治決着させたという日米政府の裏取引など、自身の体験と長年かけて調べた外交文書から見える隠されたビキニ事件の真実を紹介した。
 自らの国益のためだけに世界規模で軍隊を派遣して正義を振りかざすアメリカは、広島、長崎、そしてビキニ事件の被爆者に対してこれまで一度も謝罪をしたことはない。「原水爆の被害者は、私を最後にしてほしい」と言い残して亡くなった元第五福竜丸無線長の久保山愛吉さんの願いを改めて胸に刻みたい。

2008年6月

essay36

(36)新たな8月9日

 今年も8月6日の広島、8月9日の長崎を訪れた。平和記念式典(長崎は平和祈念式典)会場こそ大勢の参列者で混雑していたが、6日午後の広島の平和公園は平日ということもあるのだろうが、閑散としていた。諸団体による平和運動は否定しないが、全国から動員をかける方法には限界もあるだろう。自衛隊の海外派兵を恒久化しようとする動きがあるのに、平和に関して多くの市民が無頓着なことに危機感を感じるのは私だけだろうか。
 8月9日の午後、長崎港が目の前に広がる水辺の森公園では午後から「水辺の森音楽祭」が開催された。長崎の平和公園では喪服を着た遺族や関係者が祈りを捧げていたが、繁華街では11時2分の原爆投下時刻のサイレンの意味も知らずにショッピングを楽しむ市民もいた。「今を生きている私たちの“歌”が時空を超えて集まる人々と共有できる一日 8月9日 その日に私たち市民が手作りの音楽祭を“水辺の森公園”で開催します」と主催者の挨拶にあった。これまで平和運動、反核運動はイデオロギーに振り回されてきたのではないか。右翼政治家や武器商人を除けば戦争の好きな人間は少ないだろう。終戦から63年、右も左も関係なく誰もが気軽に自由に参加できる場が増えたことを素直に喜びたい。写真をはじめ、音楽、演劇など自由な表現が保証されるのも平和があってこそ、アーティストこそもっと積極的に行動すべきだ。
 ちなみに写真の背景にあるクレーンは三菱重工業長崎造船所のもの。ここの第二船台では世界最大の戦艦武蔵が建造された。1938年に起工、40年に進水式が行われ、44年のレイテ沖海戦で短い生涯を終えた。音楽祭当日には海上自衛隊のイージス艦が係留されていた。

2008年8月

essay37

(37)貧乏結構

 昨年は破綻や解雇など暗い話題に翻弄された。しかし嘆いてばかりでは腹の足しにもならない。マスコミでは困窮の説明に「ガスも電気も水道もない」という枕詞を使いたがるが、実際に世界ではガス・電気・水道の恩恵を受けている家庭がどれほどあろうか。
 メコンの畔に建つ高床式の家屋にはもちろん電気もガスも水道もない。夕餉の時間にお邪魔すると家の中から笑い声が漏れてきた。今晩のおかずは目の前のメコン川で捕れた小魚と近くに生えていた青菜、それに米飯。室内には電化製品などなく、炊事は外で七輪を使う。日本の生活から見ると何もないはずが、家族には笑顔が絶えない。それは明日という希望を信じているから。具体的に何が変わるわけでもないのに、家族が欠けることなく無事に明日が迎えられる幸せを素直に喜べる余裕があった。
 日本人は資本家や広告屋、それにマスコミにも煽られて分不相応な行き方をしていたのではないか。今年は貧乏を楽しんではいかがだろう。拙宅には風呂がないので銭湯通いをしていたが、銭湯代に事欠く事態になったので、昨年、台所のガス湯沸かし器を利用したシャワールームを手作りした。総費用は約1万円。子ども時代、長崎市内に住む祖父母の家では、夏の間、たらい風呂で行水をしていた記憶が甦る。以下のURLで詳しいシャワールームの作り方が紹介されてい る。
   http://www7.big.or.jp/~katsurao/jy/bath.htm

 そう言えば、昨年は食品偽装も話題になったが、世間はあまりにも騒ぎすぎだ。大掃除で三〜四年前に賞味期限が切れた缶詰や乾燥食品が出てきたので、食べてみたが異常はなかった・・・日本の食品は凄い?日本の食料自給率は約四割、足りない食料は世界中からかき集めているくせに、その大半はゴミになって捨てられる方が異常だろう。

2009年1月

essay38

(38)語り継ぐ

「一本の鉛筆があれば 私は あなたへの愛を書く

 一本の鉛筆があれば 戦争はいやだと 私は書く

          〜中略〜

 一本の鉛筆があれば 8月6日の朝と書く

 一本の鉛筆があれば 人間のいのちと 私は書く」

 毎年8月6日になると、広島の平和公園にある原爆の子の像の近くでは、「原爆の子サダコの願い」の紙芝居が上演されている。紙芝居の最後には、第1回広島平和音楽祭で美空ひばりが歌った「一本の鉛筆」が熱唱される。
 紙芝居夢屋のおっちゃんに扮するのは、中村由利江さん。両親ともに広島で被爆した被爆2世だ。十年前から自転車の荷台に紙芝居を積んで8月6日の原爆忌に毎年欠かすことなく平和公園に通う。6日の一日だけで40回以上も上演するため、夕方には声もガラガラになるが、「だとえ一人でも見てくれる人がいる限り語り続けます。今もどこかで戦争は続いています。一人ひとりの力は小さいけれども皆さんの力を合わせて平和の大切さを伝えていきたい」と中村さん。
 衆議院選挙が近いためか、街頭ではミサイル防衛やテロとの闘い、中には憲法9条の改正まで唱える軍国主義者まで、百鬼夜行の観がある。私たちが求めている「幸せ」は、軍備拡張や核武装では決して得られない。テレビCMで盛んに「責任力」をアピールする与党があるが、日本はまだ64年前の戦争に対して責任を棚上げしたままではないか。「正しい戦争や間違った平和は、あった試しがない(There never was a good war or bad peace.)」といったのはベンジャミン・フランクリンだったか。責任力を問うならば、原爆症認定集団訴訟に対して19連敗の政府の上告といった愚行はありえないはずだ。

2009年8月

essay39

(39)いのち

 今年は老人ホームで年が明けた。一昨年の社会福祉士に続いて、今年は介護福祉士を受験するつもりだが、その受験資格に3年以上の従業期間かつ540日以上の従事日数が必用なため、昼はCIL(自立生活センター)での障がい者介助、夜は老人ホームでの高齢者介護に就いている。
 この老人ホーム勤務はまだ1年半ほどだが、すでに数人を看取った。これまで戦場での死は幾度となく立ち会ってきたが、意外にも日常での死は初体験。戦禍での突然の死に比べ、齢を重ねた後の命が燃え尽きる瞬間を目の当たりにして、残された者の役目というものを強く意識させられた。親から子、そして孫へといのちのリレーが行われていくのと同じように、記憶の継承も残された者の使命だと思う。今年も多くの被爆2世との出会いを楽しみに、老体(?)に鞭打ちなが ら全国を駆け回ることを元旦に誓う。
 皆さんにも幸多い一年になりますように!

2010年1月

essay40

(40)米軍普天間基地

 那覇の市街地を離れるとすぐ、鉄条網越しに広大な敷地が見えてくる。彼方には青い空に星条旗がはためく。『基地の中に浮かぶ島』が沖縄だった。銃剣とブルドーザーによって先祖伝来の土地を追われ、今も日本にある米軍基地の四分の三を沖縄が負担する。その面積は沖縄県の1割(沖縄本島では2割!)を占める。
 かつて民主党は「日米安保条約を引き続きわが国の安全保障政策の基軸に据えるとの基本的立場を有するが、戦後半世紀余の長きにわたり米軍基地が沖縄に集中し、県民に大きな犠牲と負担を強いてきた歴史的事実を直視し、その負担軽減のために全力で取り組むことを、あらためて表明します」と公言していた。それが『機能分散』という子供だましのような理論で、世界一危険とも言われる米軍普天間基地を、沖縄県内を含むいくつかの地域に機能ごとに分けようとしてい る。迷走が続く政権与党の民主党だが、このままで大丈夫なのか大きな疑問が湧く。抑止力という言葉は耳に優しいが、米軍基地ははたして日本国内に必用な迷惑施設なのかどうか、普天間基地に限らず議論をする必用があるだろう。

2010年4月

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