PHOTOESSAY 3

essay21

(21)猛暑の中で

 私事で恐縮だが、 長年住み慣れた西日暮里の穴蔵アパートを後にして北千住に引っ越した。JRや東京メトロ千代田線、日比谷線、それに東武伊勢佐木線が乗り入れる北千住の駅からは徒歩10分と旧居の倍の時間がかかるが、荒川河川敷までは1分足らず。東京ではぜいたくな広い広い空を満喫している。
 転居探しの条件に日当たりを付け加えていた。西日暮里では365日24時間、日が当たることはなく、部屋からはその日の天気もまったくわからなかった。 今は早朝から電気を点けることなく、新聞が読めてしまう。しかし、明るいということは日が当たるということ。屋外の気温が35度を超えるなか、室内の温度 計は40度近くを指している。玄関まで歩くだけで汗を流している今日この頃だ。
 ところで、カンボジアでは、雨季前の4月が一番暑い季節だ。飛んでいる鳥さえ焼き鳥になって落ちてきても不思議ではないくらいに暑い。西部の町バッタンバンでは、水をかけあってカンボジア暦の正月「チョーン・チュナム」を祝う。狙われるのはきれいに着飾った若い女性だ。この時ばかりはガキ大将どもが我が物顔で、バケツ片手に町中を荒らし回る。気が付けば、路上に涼しげな風が吹いていた。

2004年7月

essay22

(22)38度線

 老人は59年前の8月9日朝の出来事を静かに語り始めた。蝉時雨があの日と同じように木々の間から降り注ぐ。ここは長崎の原爆投下地点にある原爆公園、その一角にひっそりと建つ長崎原爆朝鮮人犠牲者の追悼の碑だ。老人はハラボジ(ハングル語でおじいさん)だった。若い頃、日本国の命令で祖国を追われ、ここ長崎の三菱造船所で被爆した。ときおり笑みをも見せるハラボジとは対照的に熱心に聞き入る女性の頬には一筋の涙がこぼれていた。彼女は大韓民国(韓国)から訪れた観光客で、この日初めて原爆の惨状に触れた。ハラボジの国籍は朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)。ふたりの間にはアメリカや中国、ソ連(当時)の大国の利害から引かれた人為的な国境・38度線があり、一つの民族を分断している。その遠因を作ったのが日本であることは否定できない。
 朝鮮半島では会うことのできないふたりが、日本で民族の言葉で語り合っている。日本ができること、やらなければならないことは何だろうかと考えてしまった。決して他人が嫌がるのを承知で、自己満足のために靖国神社へ参拝することでもなければ、共通の歴史認識を築く努力もせずにマスターベーション的な教科書を採択させることに汗を流すことでもないだろう。「足を踏んだ者には踏まれた者の痛みはわからない」・・・平和条約はたかが条文に過ぎない。アジアの 国々に対して、また戦災や原爆で苦しんだ国民に対して償いはまだ終わってはいない。
 唯一の被爆国を自認するならば、戦争に参加する事に熱心になるより、戦争を止めさせることに時間と金と労力を注いでもらいたい。

2004年9月

essay23

(23)君死にたまふことなかれ

「門松は冥土の旅の一里塚、めで度くもありめで度くも無し」とは一休和尚の有名な言だ。正月だからといって浮かれてばかりはいられない。様々なアンケート調査を見ても決して世の中は良い方向に進んでいると考えている人は少ない。
 いつのまにか戦争を知らない世代が盛んに憲法改正を策動する。「アメリカの押しつけ憲法」だとか「国際貢献」だとかもっともそうな理由をつけているが、先の大戦で官民合わせて200万人以上の尊い命と引き替えに得た事を忘れているのではないか。
 国際平和を唱えながら、今、この瞬間も海外派兵された自衛隊は戦地にある。イラク派兵に賛否両論があるのはわかる。実態を知りたければほんの数時間滞在する観光旅行ではなく、最悪の事態が起これば自分が殺されるか、イラク国民を殺す心配に悩みながら銃を構える自衛官たちと一夜を過ごしてみるべきだろう。 兵隊は政治家の玩具ではない。
「殺すな、殺されるな」創立から50年、その間一度も実戦を経験してこなかったを自衛隊は誇りにすべきだと思う。戦地にある同期たちを思いながら与謝野晶子のあまりにも有名な詩を紹介したい。

    君死にたまふことなかれ
     (旅順の攻囲軍にある弟宗七を歎きて)

    ああ、弟よ、君を泣く、
    君死にたまふことなかれ。
    末に生れし君なれば
    親のなさけは勝りしも、
    親は刄をにぎらせて
    人を殺せと教へしや、
    人を殺して死ねよとて
    廿四までを育てしや。

    (中略)

    君死にたまふことなかれ。
    すめらみことは、戦ひに
    おほみづからは出でまさね、
    互に人の血を流し、
    獣の道に死ねよとは、
    死ぬるを人の誉れとは、
    おほみこころの深ければ、
    もとより如何で思されん。

2005年1月

essay24

(24)動物園

 日本ではGWに突入した。とくに行くあてもない身にとっては無用の長物と思うこともあるが、まぁ朝の混雑がないだけでも儲けものと考えることにした。
 行楽地はどこも家族連れで満員御礼。今年は動物園がブームのようだ。様々な動物たちの習性を利用したユニークな仕掛けが大好評だ。以前、動物園職員から話を聞いたことがあるが、人は人生で必ず3回は動物園を訪れるそうだ。1回目は子ども時代に親に連れられて、そして2回目は青春時代に恋人と、最後の3回目は親となって子供を連れて、ということだった。  
 戦火の止んだカンボジアやアフガニスタンでも虐殺をまぬがれた数少ない動物たちが檻の中にいた。大型の動物は砲弾で傷つき、また栄養失調でやせ衰えた姿でうずくまっている。近くには兵士たちの食用となった小動物の骨が散乱していた。寂しさを紛らわせるためか、空いている檻には犬や猫、豚、ニワトリまでもが飼われていた。それでも子どもたちは好奇心一杯に目を輝かせて、動物たちの一挙一動を見逃すまいと1時間以上もひとつの檻の前から動かない。
 日本で最も古く、日本一の入園者数(最近では旭川の旭山動物園と争っているが)を誇る上野動物園でも、1943年に空襲で檻が壊れて動物が逃げるのを防ぐために動物たちの毒殺処分が行われた。毒餌を食べない動物は槍を刺したり、首を絞めたりと二十数頭が犠牲となった。今、動物園に行けば当たり前のように動物を見ることができるが、動物園の存在は平和の象徴でもあるだろう。
 最近、テレビで流される携帯電話のCMに見ていて違和感を覚えるものがあった。若い男女のカップルが動物園を訪れているのだが、男性が携帯電話から音楽をダウンロードして楽しんでいる。動物園にはそれぞれの動物たちの生の匂い、鳴き声などが溢れているのに、なぜイヤホンで耳をふさいで音楽鑑賞に耽らなければならないのだろう。これも平和な日本の風景なのだろうか。

2005年5月

essay25

(25)60年の歳月

  今年も8月6日の広島、8月9日の長崎を訪れた。60年の大きな節目ということでマスコミ各社は大々的に「らしい」企画を打ち上げて騒いでいた。しかし現地を訪れて驚いた。マスコミの作るブームとは裏腹に地元は静かなのだ。「これまでと変わることなく、これからも変わることがない」という声がほとんどだっ た。
 たしかに被爆者の平均年齢は73歳を越え、被爆という事実が遠い過去、歴史の教科書の上での出来事になりつつあることに危惧を感じる。しかし、被爆地にも日常の生活があり、特別な存在ではない。原爆投下後70年は草木も生えないといわれた町も見事に復興を遂げ、今ではかすかに痕跡を残すのみとなった。この写真は長崎の山王神社の鳥居だ。爆心地から約800m離れていた鳥居は、半分が原爆の影響で崩れ落ち、片側だけが残っている。3000度の熱と爆風に耐えて今も立ち続ける片足の鳥居を改憲論者はどう見るのだろうか。「新しい歴史教科書」にはなぜ原爆を落とされたのかが書いてあるのだろうか。〝同じ過ちを繰り返さない〟ことが犠牲者の最大の供養ではないだろうか。

2005年9月

essay26

(26)懐かしい島

  山口県熊毛郡上関町大字祝島。瀬戸内海に浮かぶ周囲12キロ、人口約500人の小さな島だ。交通の要衝にあるため昔から航海の安全を祈る神職が置かれ、それが島の名前の由来となった祝島。歴史は古く、万葉集にも「家人は帰り早来と伊波比島 斎ひ待つらむ旅行くわれを」と詠われている。
 島では夏の南風(マジ)や冬の西風(ニシ)から家を守るために石垣や練り塀が多い。自転車がやっと通れるような細かい路地(あいご道)を、猫と追い駆けっこしながら回っていると時間が経つのも忘れてしまう。ある朝、早起きして・・・漁師さんはもっと早起きだったが・・・日の出を見ながら港を散歩していると、岸壁から老人が釣り糸を垂れていた。挨拶をすると「うちの猫が具合が悪くてね、好物の小魚を朝御飯に用意しようと思って釣っているけど、今朝はなかなかこないね。あっはっは」と元漁師のプライドからなのか苦笑いをして一人ぼっちの観客に言い訳をしながら去っていった。
 こんな平和な島の目と鼻の先、わずか3.5キロの場所に原子力発電所が造られようとしている。そこは世界最小の鯨であるスナメリや大変に珍しいナメクジウオなど絶滅の危機に瀕している希少生物たちの楽園でもあるのだ。中国電力は環境アセスメントを行ってはいるが、そのずさんな調査内容には環境保護団体か ら疑問の声が聞かれる。また、あろうことか原発建設計画に必要な詳細調査でボーリングから出た濁水を垂れ流し、すでに現地の動植物に影響が出始めている。
 祝島では25年間にわたって、この上関原発に反対し続けてきた。大金を目の前に積まれても「先祖から受け継いだ豊かな海を子孫に残すため」道理の通らない中国電力の原発推進運動に「NO」を言い続けている。連絡船が着く波止場に詩が書かれていた。「我里を 鳩子の海と人は呼ぶ なぜにさわぐや 原発の波」
 昨年2月に京都議定書が正式に発効して地球温暖化対策は始まったが、原発は決して温暖化対策に役立たない。かえって被曝労働者を産み出し、放射能汚染をもたらす原発はCMなどで唱われているようなクリーンエネルギーではない。今や原発が時代錯誤の愚物であることを祝島の自然は訴えていた。

2006年1月

essay27

(27)ピカドン

 この連休を利用して埼玉県の中央部に位置する東松山市を訪ねた。武蔵野の面影が残る雑木林を歩くとウグイスの鳴き声が澄んだ空に響き渡る。丘陵をクネクネと蛇行する都幾川には冠水橋もあり、小魚の群れが泳ぐ姿も見ることができた。その都幾川沿いに丸木位理・俊夫婦の「原爆の図」を展示する丸木美術館がある。駐車場の片隅に丸木位里さんの母親のスマさんが語った言葉が石に彫られていた。
「ピカッ」と光って「ドン」と爆風が襲ってきたので、当時は原爆を「ピカドン」と呼んでいた。長崎の原爆資料館の近くに「原爆落下地点」がある。まるで原爆が自然に空から降ってきたような「落下」という言葉に違和感を覚えた。広島では「エノラ・ゲイ」(ポール・ティベッツ機長)が、長崎では「ボックス・カー」(チャールズ・スウィニー機長)というアメリカのB-29によって原爆は投下された事実を忘れてはならない。沖縄に駐留する米海兵隊のグアムへの移転に巨額の費用負担を日本に求めているアメリカだが、これまで自らが投下した原爆による被害補償はおろか謝罪さえ行ったことはない。

2006年5月

essay28

(28)受け継ぐもの

 今年も8月がやってきた。昨年の60周年が大きな区切りだったのか、今年は慰霊祭への参加も少なく、マスコミの取り上げ方も少ないように思った。現在約26万人といわれる被爆者たちは確実に年を取り、語り部もいつかは姿を消すだろう。残された者に何ができるのだろうか。広島の平和公園や長崎の原爆公園には、 多くの市民団体が早朝から平和への熱いメッセージを語っていたが、今年気になったのは昨年にも増して「届け出がない」集会や署名活動への取り締まりが強化された事だ。ビラ入れで逮捕者が出て以来、平和運動も萎縮している今だからこそ、自分の思いを自由に発言する大切さをあらためて感じた。
 長崎県の高校生を中心に2001年から始まった高校生一万人署名は、核兵器の廃絶と平和な世界の実現を願って、県内外の高校生や中学生が自主参加して署名用紙を首にかけて街頭に立つ。今年もすでに4万5千人を超える署名が寄せられた。集まった署名は今回が9回目となる高校生平和大使によって国連へ届けられる。署名を終えた年配の女性は「私も被爆者よ」と言い、「ありがとう。がんばってね」と励ましの言葉を残していった。

2006年8月

essay29

(29)年始の風景

 今年もありがたいことに無事に新年を迎える。ここ十数年の恒例となっている新宿中央公園での年越しでは、路上で暮らす懐かしいおっちゃん達にも再会できた。 日常では当たり前過ぎて見えない「命」をつなぐ営みを確認させてもらった。美しかった日本の破壊を続ける自民党&公明党のお陰で先行きはまったく不透明の世の中だが、人生を悟って人間が丸くなってしまったらつまらないと、今年も戦う貧乏カメラマンを貫く決心をする。
 埼玉県川口市にある自主夜間中学校では毎年、スタッフや生徒が一緒になって餅つきを行っている。戦争や貧困、病気などで義務教育を終えることができなかった未修了者、中国帰還者の家族、中南米からの日系人、日本人が嫌う3K作業に従事するアジアからの労働者など、日本の繁栄を陰で支えてきた人たちが集う。日本語、中国語、スペイン語、ポルトガル語、ベトナム語、ハングル語やウルドゥー語が飛び交うインターナショナルな現場の共通語は笑顔。「日本の国際 貢献は非武装中立と笑顔だ!」と妙に納得しながら、つきたての餅をご相伴にあずかる。ふわふわと柔らかく、適度に歯ごたえがあって噛むほどに甘みが増す。 思いやりと優しさが詰まったお餅の味は格別でした。

2007年1月

essay30

(30)枝川の入学式

 4月、東京都江東区にある東京朝鮮第二初級学校でも可愛いチマチョゴリやピカピカの制服に身を包んだ9人の新入生たちが、在校生や保護者、地域住民に祝福されながら入学式に臨んだ。祝辞の間は退屈そうにしていた彼らも、新しい教科書を配られたときは期待に目を輝かせていた。これから両国の架け橋となる貴重な存在だ。東京都の嫌がらせとしか思えない都有地明け渡しの「枝川訴訟」もやっと和解が成立して、本来の学校業務に専念することができるようになったが、子どもたちが学ぶ築42年の校舎の外壁には亀裂が入り、教室では雨漏りがするなど老朽化が進んでいる。
 安倍内閣は「戦後レジームからの脱却」を盛んに口にするが、なぜ在日の社会が日本に存在するのか、日本の加害責任を忘れて拉致問題だけを取り上げ被害者面するのは許されない。民族教育権の保証と合わせて、大学受験資格では一条校(学校教育法)と同等の地位を認めるべきだ。弱者を切り捨て格差社会が固定化される日本で、国内の人権侵害も解決できない政府が他国に対して人権法を制定するとは「目くそ鼻くそを笑う」ではないだろうか。
 枝川朝鮮学校では入学式の後、校庭で花見も兼ねた焼き肉パーティーが開催され、この枝川を舞台に撮影された「パッチギ!LOVE&PEACE」 の井筒監督も出演者を引き連れて参加していた。「お兄さん、写真ばっかり撮っていないで焼き肉を食べなさいよ」ありがたいことに、あちらこちらからオモニが声をかけてくれる。初対面なのにまるで我が家のようにくつろげる優しさと思い遣りにお腹いっぱい、愛情いっぱい!の1日だった。

2007年5月

TOP PAGEに戻る