PHOTOESSAY 2

essay11

(11)大海原の孤島

 かつて太平洋の孤島を訪れたことがある。その島の名は「Isla de Pascua」、イースター島だ。チリ本土から約3800キロも離れている。面積の118平方キロメートルは大島と同じくらい。以前はペルーの領土だったが、チリとの戦争に敗れ、現在はチリ領となっている。
 すでにモアイ像は有名だが、500体を越えるモアイが島のあちらこちらに転がっている。観光客用にかなり復元されてはいるが、あるものは山肌から切り出されていたり、またあるものは草原の中を運搬中だったりと、ある日突然に時間が止まってしまったかのような風景が見られる。
 農業や漁業(ほとんど自給用)以外に産業はなく、滑走路以外に舗装道路もない(当時)とても平和な村だった。ピノチェットの圧政もここまでは及んでいないように見えた。生まれて初めてスペイン語圏に足を踏み入れた私にとって、島の空港で初めて聞くスペイン語には途方に暮れた。集まってきた客引きを前に、両手を枕に床に寝ころんで「ホテル」、それから手で押さえるふりをして「チープ」とボディ・ランゲージで寝床を探す。さすがに観光地だけあって、いわゆるゲストハウスでも一番安いところで10米ドル。そこの家の庭にテントを張り、便所と洗面所、バスを借りる事で、1日5米ドルに値切った。もちろん飯ごう炊さん。
 ここに公共の交通機関はない。数台の車以外はバイクや馬が移動手段だ。もちろん足も。島にはいくつかの死火山があり、島内を一周するのにちょうど1日がかりとなる。途中、砂糖キビ畑で茎にかじりついて水分を補給しながら、身の丈ほどの草原をさまよう。ふと猿の惑星の1シーンを思い出した。
 村に近い死火山ラヌ・カウの山頂には大きな目とくちばしを持った人が岩に刻まれている。遙か昔、この島を訪れた宇宙人との説もある。ここにいると、外界の戦争が嘘に思えるほど平和な時間が流れている。モアイたちは、人間が犯した愚かな過ちを今も静かに見つめている。

2002年1月

essay12

(12)遊 び

 お手玉、メンコ、かくれんぼ、かごめ、それにゴム飛び。町中でなかなか見ることは少なくなった子供の遊びだが、意外にもアジアの国々では今も盛んだ。写真の少女たちは学校帰りだろうか、輪ゴムを一生懸命に繋いで、お寺の境内でゴム飛びを始めた。
 最初は足首の高さだったが、膝になり、腰になり、そして胸へと高さが変わってきた。スカートをはいていることも忘れたように飛ぶことに夢中だ。さて、次はどの高さにしようか、回りの友人たちがアドバイスを始めた。日本でもよく見た光景だが、ここはラオスのビエンチャンだ。タイやベトナム、それにカンボジ アでも子供の遊びは驚くほどに共通している。子供は大人が思うよりも逞しい生き物だ。わざわざ高価な玩具を買い与えなくとも、自分で探し、工夫し、作ることができる賢い存在だ。
 アジアの国々では、子供たちに尋ねると必ず「学校に行くことが楽しい」と答えが帰ってくる。小中学生の約13万人が不登校となる日本。何かがおかしい。

2002年8月

essay13

(13)東京銭湯事情

 9月の終わり、青山の表参道にある一軒の銭湯がのれんを降ろした。創業は昭和40年代、日本は高度成長の真っ直中にあった。金の卵と呼ばれた若年労働者が、地方からどんど ん上京して東京はパンパンに膨れ上がった。四畳半一間に共同の炊事場と便所は当たり前だった。仕事が終わると、洗面器を持って銭湯に通う。浴場では肩書きがない。会社の社長も、工員も、学生もみんな同じ〇〇〇〇ぶら下げて汗を流していた。男湯も女湯も賑やかで、仕事や亭主の愚痴、我が子の自慢、趣味の話など社交場でもあった銭湯も、最近では静かなものだ。ただ身体を洗って、湯船に浸かるだけで帰っていく。
 かつて東京にも2.687軒(昭和43年)の銭湯があった。その後、公営住宅にも内風呂が整備され、昨年には半分の約1.300軒にまで減ってしまった。毎日がお祭りのように多くの人で賑わう表参道では、流行のファッションに身を包んだ若者が行き交う。今では表通りだけではなく、裏道にまで個性的な店が軒を連ねる。しかしそこには生活感がない。派手な看板や奇抜なディスプレイが、かつて人が暮らしていた痕跡を消していく。

2002年11月

essay14

(14)歴 史

 白い砂浜と青い海、それに抜けるような青空。人影も見えない貸し切り状態の海辺には夢のような景色がひろがる。ここはベトナム中部にあるダナンのチャイナ・ビーチだ。潮騒と小鳥のさえずりが心地よい眠りを誘う。地上の楽園のようなチャイナ・ビーチだが、かつてベトナム戦争時代には南ベトナムでも最大規模の米軍基地が置かれ、前線に多くの若者たちが送り込まれた。解放軍の襲撃も盛んに行われ、白い砂浜が血に染まった時代もあった。
 世の中が新年に浮かれている今も、愚かな行いが繰り返されようとしている。表紙の写真はベトコンの英雄だった老兵士だ。彼の目には、アメリカのイラク恫喝がどのように見えるのだろう。人間は歴史から学ぶことができないのだろうか。
 誰も殺さず殺されず平和な2003年でありますように。

2003年1月

essay15

(15)爆撃の傷跡

 東京では春一番が吹いた。湯島天神の梅も六部咲きとなり、ひよどりやメジロが蜜を求めて飛び回っている。アフガニスタンでも寒い冬から解放される季節がやってきた。この時期になると淡いピンクの小さな花が山肌に咲き乱れる。
 目を町中に転じると破壊と殺戮の傷跡が飛び込んできた。長年の内戦によるものだが、アメリカの飛行機が落とした爆弾によるものもある。落とされた爆弾には目がついていない。それが兵士だろうと一般市民であろうと、たとえ子どもや赤ん坊だろうが確実に命を奪い去る。爆弾を落とす人間には、爆弾が降ってくる恐怖などわかるはずもない。
 またアメリカは愚行を繰り返そうとしている。誰もイラクのフセイン大統領を支持しているのではない。人殺しが嫌いなだけだ。日本人はもう58年前の恐怖を忘れたのだろうか。決して戦争では解決できないことはパレスチナでも証明されているのに。正しい戦争、間違った平和など存在しない。
 私はアメリカのイラク攻撃に反対する。

2003年3月

essay16

(16)イラク派遣に想うこと

「私は、わが国の平和と独立を守る自衛隊の使命を自覚し、日本国憲法及び法令を遵守し、一致団結、厳正な規律を保持し、常に徳操を養い、人格を尊重し、心身をきたえ、技能をみがき、政治的活動に関与せず、強い責任感をもって専心職務の遂行にあたり、事に臨んでは危険を顧みず、身をもって責務の完遂に務め、もって国民の負託にこたえることを誓います」
 これは自衛官の入隊式における宣誓文だ。崇高な使命と教えられながら、制服で町を歩くと石を投げられ、“税金泥棒”と罵られ、肩身の狭い思いをした事を覚えている。自衛隊の存在はいつも政治家の政争の道具とされてきた。また政治家の戯れ事で自衛官が命の危険に晒されている。「戦闘地域には派遣しない」とは戦闘集団の自衛隊もなめられたものだ。日本の平和と独立を守るために何故イラクに派兵されなければならないのだろうか。
 1950年の警察予備隊発足から半世紀、政府の派兵に対する異様な執着ぶりは、まるで税金で禄を食んできた恩返しに血を流せと言っているようだ。 私たちはしっかりと記憶しておかなければならない。イラク復興支援特別措置法を作り、自衛隊を派兵させたのは自由民主党と公明党であることを。小泉首相は「復興支援」というが、肝心なことを忘れている。
 それはイラクの国民が求めているものではない。アメリカの軍隊に秩序を破壊されたイラクの人々は 日本の軍隊の派遣を望んではいない。非戦闘地域で安全が確保できるならば民間NGOの方が活動経験も豊富で、短期・長期的なプロジェクトが自由に展開できる。さらに自衛隊は自己完結型の組織だ。地元スタッフの雇用や育成、技術協力に結びつかない。宣誓文にもないような職務のために、自衛官が殺されないように、殺すことがないように祈る。

2003年7月

essay17

(17)家 族

 最近の日本では「親の子殺し」、「子の親殺し」が連日のように報道されている。マスコミはいかにもおどろおどろしい事件として伝えているが、これは個々の事件が特別ではなく、現在の社会が作り出した申し子ではないだろうか。
 人間は決して一人では生きていけない。あまりにも身近すぎて見えない絆が家族であり、愛だと思う。物質的な豊かさを幸せと勘違いしている世の中で、いかに多くの人たちの世話になっているか見つめ直して欲しい。
 世界では2000万人以上が家を追われ、食事もままならず難民として不安定な生活を強いられている。世界人口約64億人の中で5人に1人は1日1ドル以下で生活をし、8人に1人は満足に食事をとることができず、約1億人もの子供たちが路上で生活をしている。
 平凡でいられるということは大変に貴重なことではないだろうか。毎日を当たり前のように一緒に暮らしている家族も、実は宝物かもしれない。お互いに感謝する「家族の日」という祝日があっても良いと思う。

2003年11月

essay18

(18)新 年

 2004年がスタートした。どんなに焦ろうが無視しようが、必ずやってくる新年。暦とは不思議なものだ。朝起きて陽が昇り、昨日と変わらない営みが、この日を境に劇的に変化する。
 日頃いい加減な自分でさえ、なにか清々しい気持ちになる。年が変わることでそれまでの贖罪がなされた気持ちだ。今風に言えばリセットされたのだ。これまでに数十回の新年を迎えた。オーストラリアの大平原をバスで移動中だったり、ハワイでは騒々しいほどの花火を見ながら、また吹雪の中を小銃を携行して歩哨中に、気が付かないまま勝手に日付が変わっていた事もある。
 昨年は多数の国民の無関心を良いことに、自民党・公明党が戦争に参加できる「一人前の」国家を目指して自衛隊のイラク派遣を決めてしまった。
「門松(正月)は冥土の旅の一里塚、目出度くもあり目出度くも無し」
 これは一休和尚の名高い歌だ。穏やかに迎えた新年、自分たちが暮らすこの国の行く末をじっくりと考えてみたい。

2004年1月

essay19

(19)八百万の神

  台所には台所の神さま、便所には便所の神さま、屋内にとどまらずに路傍に生える小さな花から小川のせせらぎを泳ぐ小魚に至るまで、日本にはあらゆるところに神さまがいる。12月24日にはケーキを買って自宅でクリスマスを祝い、大晦日には除夜の鐘を寺でつき、神社へ新年の初詣に出かける日本人らしい発想だ。「八百万の神」といっても誰も実際に数えた人はいないだろうが、森羅万象すべてに神の存在を認めた日本人の神妙というか、大胆というか、いい加減というか、困ったときの神頼みには大変便利な国だろう。
 この時期、東京・上野の湯島天神には多くの受験生が志望校の名が入った絵馬を片手にお参りに訪れる。もちろん受験生以外にも、就職活動中の卒業予定者や片思いの相手に願いを伝えたい紳士淑女もあって天神さまは大忙しだ。たった1枚の5円玉や10円玉で、人生を左右するような願い事をされた神さまに正直な感想を聞いてみたいものだ。
 キリスト教・イスラム教・ユダヤ教の聖地を巡って対立が続くイスラエル。カトリックとプロテスタントが血の報復を繰り返す北アイルランド。スンニ派とシーア派が主導権争いを始めたイラク、自衛隊を海外に派兵するよりも、この世界に誇れる日本人の自由な宗教観を輸出できないものだろうか。

2004年3月

essay20

(20)海外廁事情

 人類が誕生してから今まで、どんなにグルメになろうとも食べた物は出さなければならない。これは未来永劫変わることのない自然の法則だ。上から入って下から出るまで、その速度に個人差はあるものの、まったくお通じが無いのは幽霊ぐらいだろう。
 昔むかしは、便意を催したところでしゃがめば良かった。今でも山に行ったときなど、大空の下でヒバリの声を聞きながら大地に踏ん(糞)張ることもあろう。南米はペルーにあるインカ帝国の都だったクスコ。お洒落な帽子に色鮮やかな民族衣装に身を包んだおばちゃんが、目の前でいきなりしゃがんだかと思うと、スカートの下からチョロチョロと細い水の流れが・・・。もちろん公道である。これにはびっくり!スカートの新たな用途に目から鱗だった。
 所変わってカンボジア。ここではなぜか男性も道端で立ち小便するときにしゃがんでいる。これでは「立ちション」ではなく「座りション」だろう。理由を聞いても「昔からそうしてるから」
 歴史に話を戻すと、やがて集団生活をするようになると、衛生上からも排便のための場所が定められた。川や湖の近くでは、木材で水の上に足場を組み、その上から落とす方法が考えられた。川屋、つまり廁の誕生である。
 カンボジアの農村を訪れたとき、養殖池に小さな櫓が組まれており、周りはムシロで囲まれていた。丸太の間に渡された板の下では、魚たちが美味しい?ご馳走を待ちかまえている。栄養価も高く、餌代もかからない一石二鳥。そして大きくなった魚たちは、人間の胃袋に消えていく。まさに自然循環型、しかし刺身で 食べるのは遠慮したい・・・。
 アフガニスタンの木賃宿では、便所に水の入ったバケツがあった。用便の後、左手で水をすくって洗う手動式ウォシュレット!彼らが言うのは「ちり紙で拭く のは、ただお尻を撫でているだけで不衛生。水で洗った方がきれいになる」仰せごもっともだ。初めはちょっと冷たいが、慣れればゾクゾクして快感になる。でも乾燥させる手段がないため、始終パンツが濡れているのが難点だ。
 変わったところでは、豚舎の上に便所を設けて、豚に排泄物を処理させる方法もあるとか。汚物と呼ぶにはあまりにも失礼な黄金のお話でした。

2004年5月

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