PHOTOESSAY 1

essay1

(1)偉大なおしり

  カンボジアの首都プノンペンから、乗り合いタクシーに揺られること約4時間。目の前にコバルトブルーの海原が広がっていた。タイ湾に面した港町、コンポンソムだ。町は丘の上にあり、静かなたたずまいを見せている。私が訪れたときは、途中の道筋でポル・ポト派ゲリラが外国人旅行者を誘拐しており、一年中泳げる白い砂浜は人影もまばらで、水着など気にする必要もなかった。
 手作りであろうか、小さな漁船に乗っていた老漁師に手招きされた。「飯を一緒に食って行け」という。海岸に建つ小さなあばら屋で釣ったばかりの魚をご馳走になる。
 食後、便所を尋ねると海を指さした。「何でわざわざ小屋にこもって臭い思いをしなければならねんだ」。確かに広い青空の下での用便は爽快だ。隣の岩場からも「ブリブリ、ドボーン」と立派な音が聞こえてきた。見ると、白くて大きなおしりが海に突き出ている。大自然に生かされている人々のおしりは、とても美しく偉大であった。

2000年10月

essay2

(2)地球人

 これまで何カ国を訪れたことだろう。国境を越えるたびに言葉が変わる。貨幣も変わる。文化や宗教も変わってしまう。黒髪、白髪、金髪に茶髪、目の色にしてもさながら24色のクレパスだ。都市部を除いては英語も通じず、足の向くままに旅をしてきた。
 ふと気が付くと、いつの間にか隣には好奇心いっぱいの瞳を輝かせて子どもたちが座っていた。ベトナムの山岳少数民族の村で、地雷原に埋もれたカンボジアの村で、戦火におびえるアフガニスタンの村でも、いつも子どもたちに囲まれていた。彼らにとって人種も民族も、そして主義信条など関係ない。笑顔が仲間の証だ。
 いまだ内戦続くアフガニスタンのカブールで、ニコニコしながら少年が手招きをする。自宅でお茶をご馳走してくれたのだが、パシュトー語がわからない私はチンプンカンプン。それでも回りを見渡すと、なぜか懐かしい顔に見える。この地は昔からシルクロードの要衝として、東西の文化や人種が交わってきた。戦火の中にも旅人をもてなす心豊かな人々が暮らす。
 ところで、この写真の中に日本人は何人いるかおわかりかな?

2000年11月

essay3

(3)お釈迦様

  ラオスという国をご存じだろうか。フランスの植民地だった事もあり、ベトナムやカンボジアと一緒にインドシナ三国と称されることが多い。国土は日本の本州とほぼ同じ面積に、500万人足らずが暮らす。その9割は農民が占めるため、都市人口率はたったの14.7%(日本は77.4%)に過ぎない。
 メコン川に沿って開けた首都ヴィエンチャン。深い緑に囲まれた寺院が点在するのどかな街だ。熱心な小乗仏教徒である彼らは、托鉢のお坊さんと出会うと自転車やバイクを降り、帽子を取って頭を下げながらすれ違う。寺を中心にコミュニティがあり、生活の中に仏教が生きている。
 ある寺の境内に小学生らしき男の子がいた。近くの屋台で買った飴をなめるでもなく、一心不乱に見つめている。仏頂面と言えば愛想がなさそうだが、彼はまるで哲学者のように、手に持った飴で悟りを開いているようだった。
 美しいメコン川に映える夕陽を見ながら私も悟りを開こう、と思ったらお腹が「グー」となった。人間正直が一番と悟り、屋台で夕食を取る。

2000年12月

essay4

(4)お正月

 カンボジアでは陰暦をもとに作った独自の暦を使っているので、クメール語で「チョール・チュナム」と呼ばれるお正月は、4月中旬の新月(カンボジア暦で5月)の日が新年になる。
 この日は老いも若きも着飾って、お寺にお参りをする。精一杯の喜捨を施し、家族の幸せを願う。プノンペンのような大都会は別として、田舎ではまだまだお寺はコミュニティーの中心であり、社交場であり、娯楽であり、男女が出会う場所でもある。若い男女が輪になって、伝統的な踊りを舞う。またハンカチを使ったゲームをしたりと、将来の伴侶を見つける大切な場所だ。
 子どもたちは、日本のスイカ割りのように目隠しをして、吊された水瓶を棒で叩き割ったり、麻袋に入ったままで駆けっこをしたりと、まるで運動会のようだ。優勝者にはお坊さんから賞品が与えられる。
「食事をどうぞ」。お坊さんから声をかけられた。もちろん断る理由がない。白いご飯に海苔のスープ、焼き魚に野菜の煮物。三杯のおかわりをした私は、お正月の目出度さに心から感謝をした。今年も平和でありますように。

2001年1月

essay5

(5)春 節 祭

  爆竹が威勢良く弾けるなか、大頭仏が戯けながらあたりをうかがう。すると賑やかな太鼓や銅鑼、シンバルに合わせて、獅子舞が躍り出た。今年は去る1月24日が春節祭だった。横浜や神戸などの中華街では恒例の風景だろう。
 ここカンボジアのバタンバンでも、華僑の人々が旧暦(太陰暦)の正月である春節を祝っていた。数年前まではポル・ポト派との内戦で、爆竹ならぬ銃声が絶えることの無かった町も、今ではしっかりと平和を楽しんでいる。日頃はムッツリの頑固親父も、悪戯好きな腕白小僧も、この日ばかりは飛び切りの笑顔を見せる。毎日がお祭りならば、世界中から戦争も無くなるだろうに。
 祭りは本当に素晴らしい。なぜならばタダで飯が食えて、酒が飲めるから。平和万歳

2001年2月

essay6

(6)ギネスブック

 「チョーイ・オイ!」(畜生)。ベトナムとカンボジアが接する国境で、まるでピラミッドのように荷物が積まれた自転車がいくつもそびえ立っている。この運転手は積み忘れた荷物があったらしく、吹き出る汗に文句を言いながら、来た道を戻っていった。
 しかし、見事なまでにバランス良く積まれた自転車の荷台を見ていると、一個の芸術作品とも思えてくるから不思議だ。この制作過程に立ち会えなかった事が悔やまれてならない。さすが強国アメリカを破った人力大国ベトナムだ。
 ベトナムとカンボジアの間には、もちろんトラックでの流通も盛んだが、直行便は便利が良い分、料金も高い。国境で互いに物を手渡しすれば費用も安上がりなのだ。もちろん密輸も含めて。
 かの運転手は戻ってきたが、近くの屋台で油を売りだした。そのうち私を見て手招きをする。「どうだい、自転車に乗ってみないかい」。お茶だけご馳走になって「急いでいるから」と残念そうな顔で退散した。今思えば、一度あれを引っ張ってみてもよかったかな、と後悔している凡人だった。

2001年3月

essay7

(7)花 祭 り

 カンボジアでは4月末の満月、お釈迦様の誕生、悟道、入滅を記念するメヤカ・ポジャのお祭りが行われる。1年で最もあつい時期で、木陰に休んでいても熱風が体を包む。あたり一面が体温よりも熱い。下手に部屋にいると、扇風機からの酷風で蒸し焼きになってしまう。
 郷に入ったら郷に従えだ。とりあえずクメールの人々を見習うことにした。クロマーと呼ばれる万能マフラーを準備する。あるときは粉塵よけのマスク、またある時は風呂敷代わり、さらには赤ちゃんの背負いひもやベルトにもなる大変重宝なグッズだ。ここでは服を脱いだ後の腰巻きにして、早速、メコン川に浸かってみた。岸辺からの第一歩、なにやらなま暖かい水が足をくすぐる。足の裏には妙にヌルヌルチクチクする川底があった。残るも地獄、進むも地獄。とにかく腰が浸かるあたりまで足を進める。流れが速くなっているためか、水温も心地よく、また川底の泥がとても滑らかになった。自然の偉大さに感謝しながらも、尿意を催した私は・・・・・。

2001年3月

essay8

(8)田 植 え

  田圃にそよぐ稲の緑がまぶしい季節。アジアの国々でも一家総出で田植えが行われている。ベトナムの山岳地帯、独立戦争で名高いディエンビエンフー近くにある少数民族の村でも田植えの真っ最中だった。仕事の足手まといになる年少組は、それでも彼らの仕事である弟や妹たちの子守をしながら、小魚を捕ったり、香草を集めたりと家族を助ける。「貧しい」と言うのは簡単だが、塾通いで詰め込み教育を受け、遊びといえばテレビゲームしかできない日本の子供たちと、土の温かさ、草木の薫り、命の尊さを体験から学べる彼らでは、どちらが幸せなのか考えさせられる。
 私も何か手伝えるかと靴を脱いで田圃に入ってはみたが、倒れないようにバランスをとるのに精一杯。ついには邪魔だと怒られてしまった。軟弱なアジア人たることを恥じ入るばかりだった。

2001年6月

essay9

(9)夏 休 み

  8月に入った日本列島では相変わらず猛暑が続く。今年の夏はさすがに堪える。しかし、いつからこんな貧弱な身体になってしまったのだろう。地下鉄や山手線をはじめ電車の冷房率が100%となり、デパートや劇場はもちろんのこと、お役所までが冷房ギンギンで、冷え性の人には夏が苦手と笑えない話もある。
 ところ変わってカンボジア。やはり暑い。暑いときには無理をせず、ゆっくりと昼寝が一番だ。悠々と流れるメコンに身を浸して、身も心も洗い、我慢ができない時は一緒に用も足して、さわやかなそよ風に身を任せながら木陰に吊ったハンモックで王様気分。これが自然の摂理というものだろう。老いも若きも男も女もみんな平等、おっぱいが見えても気にしない。「隠すから恥ずかしくなる」と村の婆ちゃんが言っていた。
 この時期、カンボジアは雨期である。一日に一回、1〜2時間ほど土砂降りが来る。トンレサップ湖からメコン川に流れていた水が、逆にメコン川からトンレサップ湖に逆流し始める。メコンの水量を調節するための自然の機能だが、多くの魚が一緒に湖にもたらされ、世界でも有数の漁獲量を誇る。
 夏は暑いものだ。このさい、全家庭が一斉に冷房を止めて、水風呂に浸かり、ステテコ姿で団扇を片手に夕涼みはいかがだろうか。きっとヒートアイランド現象なんてすぐにでも解決する。

2001年8月

essay10

(10)アフガニスタン

「アッサラーム・アレイコム」突然の声に驚いて顔を上げると、羊飼いの少年が自家用ラクダ(?)の上から挨拶をしたのだ。「Are you happy?」彼が知っている数少ない英語なのだろうか、当惑している私に笑顔で語りかけてくれた。
 ここはパキスタンからカイバル峠を越えたアフガニスタンの国境の町トルハムだ。道端にはちり紙のようにお札が積まれている。これでも両替商なのだ。商人たちなのか、大きな荷物を傷だらけの日本製ワンボックスカーに詰め込むと、砂塵をあげて走り抜けていった。あとには羊と鳥の鳴き声だけの平和な田舎の景色が広がる。イスラム教のホスピタリティなのか、現地のパシュトー語などまったく理解しない私にも手招きでお茶の誘いがかかる。
 私がアフガニスタンを訪れたのは4年前のことだが、あの心優しく正義感が強い友人たちが危機に瀕している。アメリカでのテロは憎むべきものであり、絶対に許されない行為だ。それ故にかけがえのない命の事を考える。「正義の戦争なんてあった試しがない」誰の言葉か忘れてしまったが、我々は過去の歴史に何を学んできたのだろうか。
 まだ日が昇らない闇のなかで、モスクのスピーカーから礼拝の時刻を呼びかけるアザーンが流れる。「今日も一日、平和でありますように」人々の祈りが通じることを願ってやまない。

2001年10月

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