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(54)核兵器廃絶ゼロ年

昨年10月の国連総会で123カ国の賛成(反対38カ国、棄権16カ国)により採択された核兵器禁止条約の交渉が、今年3月にいよいよスタートする。残念ながら唯一の戦争被爆国である日本は、反対票を投じている。 それは日本がアメリカの核の傘にあり、その核抑止力を有効な手段と認めているからだ。一方で核兵器の非人道性を唱えながら、もう一方では核兵器の廃絶に反対する。誰もが矛盾していると感じるだろうに、なぜ政治家は平気でいられるのだろう。岸田外務大臣の選挙区は広島1区、まさに爆心地であり誰よりも被爆の実相に詳しいはずなのだが・・・。
 8月6日の原爆慰霊の日以外はいつも閑散としている平和公園も、昨年6月にオバマ米大統領が訪問したことで今でも多くの関心を集めている。
「いつの日か、証言する被爆者の声が私たちのもとに届かなくなるでしょう。しかし、1945年8月6日の朝の記憶を決して薄れさせてはなりません。
その記憶があれば、私たちは現状肯定と戦えるのです。その記憶があれば、私たちの道徳的な想像力をかき立てるのです。その記憶があれば、変化できるのです~中略~私の国のように核を保有する国々は、勇気を持って恐怖の論理から逃れ、核兵器なき世界を追求しなければなりません」とのオバマ大統領の平和公園でのスピーチには大いに共感できる。
 しかし、それに先立つ4月に行われた広島でのG7外相会談の折、アメリカのケリー国務長官は「世界中の全ての人々がこの資料館を見て、その力を感じるべきだ。核兵器の脅威を終わらせる責任だけでなく、戦争そのものを無くす誓いを、激しく抗いがたいほどの厳しさで思い出させる。戦争は最後の手段であり、決して最初の選択であってはならない」と語った。核兵器廃絶は武力による解決をも放棄させる願いであることを忘れているのではないか。1月20日に新大統領に就任するトランプ次期大統領は「世界が核に関して良識を取り戻すまで、アメリカは核戦力を大幅に強化、拡大する必要がある」と発言している。今年も被爆2世として声を上げ続けなければならないと新年の抱負に思う。

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(53)被爆71年目の始まり

 昨年は被爆70年、終戦70年ということで多くのメディアが特集を組んだ。その反動から今年はともに露出が少なくなるだろう。しかし被爆者にとって、そして私たち被爆2世にとって原爆は終わったわけではない。
 昨年暮れに突然、日韓外相会談で従軍慰安婦の妥結が図られた。
私たちの子や孫、その先の世代の子供たちに謝罪し続ける宿命を背負わせるわけにはいかない」
安倍首相のコメントは決して加害者が言う言葉ではない。戦争を知らない私たちは再び過ちを繰り返さない責任がある。さらに「ふたたび被爆者をつくらない」は被爆者だけではなく、地球市民の願いでもあるはずだ。一年の計は元旦にあり。決して諦めず、希望を持って一歩を進んでいきたい。

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(52)3号被爆者

 被爆者援護法では、被爆者の定義として以下の通りに定めている。
 1号被爆者=原爆が投下された時に広島市もしくは長崎市の区域内または政令で定める隣接する
       区域内にいた者(直接被爆者)
 2号被爆者=原爆投下から2週間以内に爆心地から2㎞以内に立ち入った者(入市被爆者)
 3号被爆者=1号被爆者および2号被爆者以外で、原爆投下時およびその後に爆心地の外に避難した
       被爆者の救護や搬送、遺体処理にあたった者(救護被爆者)
 4号被爆者=1号〜3号被爆者(母親)の胎内にいた者(胎内被爆者)

 3号被爆者は広島や長崎の爆心地に行ってはいないが、被爆者と接したことで残留放射能によって二次的に被爆したため、本人にも被爆者という自覚がなく、また被爆者健康手帳を申請しても「救護、看護、運搬などで、負傷したり亡くなったりした被爆者に10人以上に触れた」という厳しい要件があって取得自体が困難だったが、その後、「10人以上」から「1日5人以上」に緩和され、さらに接触がない場合でも、一定数の被爆者が集まる環境にとどまったという証明ができれば手帳の交付を受けられるようになった。2015年3月末現在、3号被爆者は20013人で全体の約1割を占めている
 長崎県大村市は爆心地から直線で約20kmの距離にあるが、ここにはかつて大村海軍病院があり、原爆投下直後から次々に被爆者が搬送され、最終的な収容人数は1700人を数えたその後の調査で被爆者の治療に当たった軍医や衛生兵、看護師らにがんや肝機能障害、白内障など一般より高い率で発症していることが弁護士らの調査で判明しているが、これまで原爆症と認定された3号被爆者は皆無だ。放射線の影響は被爆から70年が過ぎた今でも解明されておらず、高齢化が進む被爆者に寄り添った援護施策が急務だろう。
 旧大村海軍病院は
現在独立行政法人国立病院長崎医療センターとして高度専門医療施設の役割を担っているほか、離島の急患も受け入れられるうドクターヘリ事業にも力を入れている。その入口には海軍病院時代の正門門柱が残されており、隣には多くの被爆者を救護したことが記された顕彰碑が建立されている。

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(51)東京に原爆が落ちた日

 第二次大戦末期、マンハッタン計画を進めるアメリカにとって原爆投下は人類史上初めてのことで、その特殊性や威力は計り知れず、事前にデータ収集と爆撃機の搭乗員訓練をかねて長崎型原爆「ファットマン」と同じ大きさの模擬原爆(1万ポンド軽筒爆弾)の投下訓練が必要だった。模擬原爆はオレンジ色に塗装されたカボチャのような外観からパンプキン爆弾と呼ばれた。模擬とは言っても高性能火薬1万ポンド(約4.5トン)が装填されており、通常爆弾に比べても破壊力は格段に大きい。
 1945年7月20日、直接原爆投下に携わる第20航空軍隷下の509混成群団のB-29が最初の目標として選んだのが東京だった。(同日、東京以外にも茨城県大津や福島県平と福島市、新潟県長岡市、富山県富山市などが爆撃された)
 功を焦るクロード・イーザリー少佐が機長のB-29(301号機)は皇居にパンプキン爆弾を投下したが、目標を大きく外れ東京駅八重洲口の外堀(写真)に着弾して死者1人、負傷者62人を出した。さらに同年7月29日、武蔵野市にあった中島飛行機武蔵製作所を狙ったB-29(7297号機)のパンプキン爆弾は目標を大きくそれて西東京市(旧・保谷市)柳沢地区に着弾、死者3人、負傷者9人の被害を出した。
 パンプキン爆弾は東京の他、茨城、福島、新潟、富山、岐阜、静岡、福井、滋賀、山口、愛知、愛媛、京都、大阪など30都市に約50発が投下され、死者約400人、負傷者約1200人という犠牲が出ている。原爆の被害は広島、長崎の被爆地だけにとどまらない。今年は被爆70周年、そして終戦70周年。体験者の高齢化が進み、戦後生まれの人間によって歴史がねじ曲げられる危機が訪れている。過ちを繰り返さないためには記
憶の継承が急務と思うのは私だけではないだろう。 
 

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(3)お釈迦様
(4)お正月
(5)春節祭
(6)ギネスブック
(7)花祭り
(8)田植え
(9)夏休み
(10)アフガニスタン

(11)大海原の孤島
(12)遊び
(13)東京銭湯事情
(14)歴史
(15)爆撃の傷跡
(16)イラク派遣に想うこと
(17)家族
(18)新年
(19)八百万の神
(20)海外厠事情

(21)猛暑の中で
(22)38度線
(23)君死にたまふことなかれ
(24)動物園
(25)60年の歳月
(26)懐かしい島
(27)ピカドン
(28)受け継ぐもの
(29)年始の風景
(30)枝川の入学式

(31)語り部
(32)もう一つのワールドカップ
(33)とんちんかん
(34)望郷の想い
(35)被爆者の闘い
(36)新たな8月9日
(37)貧乏結構
(38)語り継ぐ
(39)いのち
(40)米軍普天間基地

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(41)65年という歳月
(42)2011
(43)原発はパンドラの箱
(44)慰霊の日
(45)いつまでも忘れない
(46)消された写真展
(47) 被爆マリア像
(48)ウリナラ
(49)靖国参拝
(50)集団的自衛権

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