北海道(北広島市)

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「平和の灯」北海道北広島市

 北海道の千歳空港から札幌へ行く途中に北広島市がある。明治時代、広島からこの地へ25戸が集団移住したことから広島の地名が付いた。以前は広島町だったが、市制施行で本家の広島市と区別するために北広島市へ改称された。
 JR千歳線北広島駅から約1km。人通りのない高台の雪原に小さな灯火が揺れていた。平成8年、広島にある平和記念公園から分火された「平和の灯」だ。被爆地の広島・長崎から遠く離れた北海道にも440人の被爆者が暮らす。札幌には原爆ドームを模したノーモアヒバクシャ会館があり、原爆関連資料約150点を展示している。旭川では毎年、原爆被爆者をしのぶ市民の集いが開かれるなど、道内各地で被爆者の記憶を継承する努力が続けられている。

東北(宮城県)

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「いのりの像」宮城県仙台市

 広島・長崎の原爆による「県内の犠牲者を悼み、このような核兵器は地球上から絶滅させ、世界永遠の平和を切に祈念」するため、1994年に宮城県原爆被害者の会が錦町公園に建立。今も宮城県内には約200人の被爆者が暮らしている。

東北(福島県)

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「パンプキン爆弾」(任務番号 No.2)福島県福島市

 1945年7月20日、B-29(300号機)から投下された一発のパンプキン爆弾(模擬原爆)が農作業中だった15歳の少年の命を奪い、負傷も2人出した米軍の資料では攻撃目標は軽工場となっていたが、実際に投下されたのは農地だった。
 その時の爆弾の破片を遺族が見つけ、慰霊のために近くの瑞龍寺へ預けた。(写真はその破片)
 
パンプキン爆弾は模擬原爆といいながら4.5トンもの火薬が詰まった大型爆弾で、終戦までの約1ヶ月間に全国30都市へ計49発を投下、400人以上の犠牲者を出している。

「パンプキン爆弾」(任務番号 No.8)福島県福いわき市

 1945年7月26日、B-29(302号機)がいわき市平地区にあった国民学校(現・平第一小学校)の校庭にパンプキン爆弾(模擬原爆)を投下、学校建物は完全に崩壊し、死者3人、負傷者53人を出した。米軍の報告では投下したのは工業地区となっていた。平地区は同年の7月20日にもB-29(304号機)によってパンプキン爆弾の攻撃を受けたと米軍の報告書にあるが、日本側に被害の記録はない。
 兵器のハイテク化が進む現在でも民間人に対する誤爆はなくならない。

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「パンプキン爆弾」(任務番号 No.11)福島県郡山市

 1945年7月29日、B-29(7353号機)によって郡山駅の操車場に投下されたパンプキン爆弾(模擬原爆)は死者34人、負傷者224人という大惨事を生んだ。度重なる空襲で海上輸送が機能停止する中で「日本人は輸送をほとんど全面的に鉄道に頼らなければならなくなった。(中略)郡山操車場は本州北部地域と南方東京地域の間の交通を左右する」として米軍の重要攻撃目標だった。

「パンプキン爆弾」(任務番号 No.11)福島県郡山市

 1945年7月29日、B-29(7291号機)により郡山市内にあった日東紡績郡山第三工場にもパンプキン爆弾(模擬原爆)が投下され、15人が死亡した。現在も日東紡績が土地を管理しているらしいが、撮影時は更地となっていた。
 当時、郡山には日本最大規模の燐工場だった日本精錬や、工業薬品を製造していた保土谷化学など軍事物資の生産拠点が多数あり、米軍によって最優先攻撃目標になっていた。

関東・甲信越(茨城県)

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「パンプキン爆弾」(任務番号 No.1)茨城県北茨城市

 長崎に投下されたファットマンと同一形状の模擬原爆=通称パンプキン爆弾が、爆撃機の乗員訓練とデータ収集のため全国に50発が投下された。その第一陣として1945年7月20日、関東近郊ではここ茨城県の大津(302号機)、福島県の平(304号機)、そして東京の皇居(301号機)にパンプキン爆弾が落とされた。残念ながら大津には投下時の被害状況など記録葉残っていない。
 大津はかつて炭鉱と漁業で栄えた町だが、軍需産業とは縁がない地域だ。ペリー来航よりさかのぼること29年の文政7年(1824年)、イギリスの捕鯨船の乗員がこの浜に上陸して大騒ぎになったことが記録されている。

「パンプキン爆弾」(任務番号 No.8)茨城県日立市

 1910年創業の日立製作所発祥の地である山手工場にも、1945年7月26日にパンプキン爆弾(模擬原爆)が354号機によって投下された。工場棟をそれて正門前の道路に着弾、死者1人、負傷者多数を出している。
 当時、機関銃や機関砲など軍需工場として重要な役割を担っていた日立製作所は度重なる米軍の空襲や艦砲射撃を受け、その企業城下町であった日立市も甚大な被害にあった。

関東・甲信越(千葉県)

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「原爆犠牲者慰霊碑」千葉県千葉市

 亥鼻公園内に1979年、建立された原爆犠牲者慰霊碑。千葉県在住および所縁の被爆者で亡くなった方を名簿登録(合祀)し奉納している。「1945年8月6日、9日、広島と長崎の空に天を裂く閃光がはしった。数十万人の生命は地上から消えた。生き残った被爆者は放射能の病苦と、貧困と、差別と、政治の無視に耐え、ひたすらに戦後の日本を生きた。その日の記憶をいずみのように鮮烈に抱き、再び核戦争のおきぬことを願い、その苦難がやがて大地に芽生く一粒の麦たらんことを信じて。」と碑文は語りかける。

関東・甲信越(埼玉県)

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「原爆の図丸木美術館」埼玉県東松山市

 1967年に開館した原爆の図丸木美術館は、画家の丸木位里、俊夫妻が共同制作した「原爆の図」をはじめ、「南京大虐殺の図」「アウシュビッツの図」など戦争の悲惨さを伝える作品だけではなく、「水俣・原発・三里塚」といった社会から犠牲を強いられた人々の魂の叫びが描かれた作品も常設展示されている。広島・長崎の被爆地から遠く離れた場所でも原爆禍を想い、平和を問うことができる貴重な場所として世代を超えた多くの人が訪れる。
 美術館の敷地に建つ
「ピカ(原爆)は人がとさにゃちてこん」という石碑(写真右)は、原爆は決して天災ではなく人間が人間に対して落としたものだという丸木位里の母・丸木スマの怒りの言葉だ。

関東・甲信越(東京都)

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「原爆犠牲者慰霊碑」東京都葛飾区

 1967年に東友会により品川区の東海寺に建立された原爆慰霊碑は、2012年には葛飾区の青戸平和公園へ移転した。(写真左)それまで開催されてきた原爆犠牲者慰霊祭も追悼の集いとして誰もが自由に参加できる開かれた式典となった。慰霊碑には「われら生命もて ここに証す 原爆許すまじ」という被爆者の声が刻まれている。
 また同公園には非核平和を願う祈念塔(写真右)もあり、塔の前には被爆した広島の御幸橋の縁石と長崎の瓦も置かれ、献架台には折り鶴が絶えることがない。

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「広島・長崎の火」東京都台東区

 上野恩賜公園内の上野東照宮境内に福岡県八女市(星野村)の原爆の火と、長崎の原爆瓦から採火した長崎の火を合わせた火が1990年より灯されている。

「明日の神話」東京都渋谷区

 1日の乗降客が200万人を超える渋谷駅の連絡通路には、岡本太郎氏がアメリカの水爆実験で被爆した第五福竜丸をテーマに作成した横30メートル、高さ5.5メートルの巨大壁画が2008年から一般公開されている。

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「平和祈念像」東京都武蔵野市

 井の頭恩賜公園にある彫刻園には、長崎の平和公園に建立された平和祈念像の原型(高さ9.7m)が設置されている。その隣の北村西望のアトリエ館には平和祈念像の制作過程も合わせて展示されている。ちなみに北村西望は長崎県南有馬村の出身で、平和祈念像の制作のためにここへアトリエを構えた。アトリエの周りには北村西望の作品が多数、展示されている。

「平和祈念像」東京都北区

 北村西望が武蔵野市へアトリエを移すまで住んでいた北区にも高さ2.41mの縮小版(原型の1/4サイズ)平和祈念像が1990年、複合文化施設「北とぴあ」に建立され京浜東北線から一瞬だが後ろ姿が拝める。
 台座には「
日本国憲法に掲げられた恒久平和の理念に基づき、平和で自由な共同社会の実現に向けて努力しています。人間のぬくもりを感じるふるさと、美しい自然をこれから生れ育つこども達に伝えることは、私たちに課せられた大きな責務であります。私たちは、わが国が非核三原則を堅持することを求めるとともに、心から世界の恒久平和と永遠の繁栄を願いつつ、ここに北区が平和都市であることを宣言します」とあった。

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「平和の像」東京都三鷹市

 北村西望は生前、三鷹市とも関わりが深く、三鷹100周年記念事業の一環として1989年に1/4の縮小版が仙川公園に建立された。「この像には、幼い子供達から、お年寄りまで、市民一人ひとりの平和へのおもいが託されています」と案内板には記されている。

「平和祈念像」東京都板橋区

 長崎の平和祈念像の試作として北村西望は立像も手掛けていたうで、原爆の脅威を表す垂直に挙げた右手と、平和を表す水平に伸びた左手は長崎と祈念像と同じポーズ。板橋区役所正面玄関前に1987年建立。これが北村西望最後の作品となった。

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「平和の灯」東京都板橋区

 板橋区役所1階ロビーには被爆瓦などの展示とともに、広島の「平和の灯」と長崎の「誓いの火」から採火した平和の灯が1992年より燃え続けている。

「板橋区平和公園」東京都板橋区

 公園内には板橋区役所と同じく広島と長崎から採火された平和の灯が1992年から灯され、その全面にある池は「へいわ」の字を象ったもので、長崎の平和公園内の平和の泉の水が注がれている。

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「平和の泉と平和祈念像」東京都新宿区

 全国有数の繁華街、歌舞伎町近くにある新宿区役所の正面玄関には、長崎の平和の泉の源流から採取された水を注いだ平和の泉と、北村西望氏の長男・治禧氏の制作による平和祈念像が1989年に設置されている。

「平和の灯」東京都新宿区

 同じく新宿区役所正面玄関の横には、広島の「平和の灯」と長崎の「誓いの火」を合わせた平和の灯が1988年から灯され続けている

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「平和の灯」東京都港区

 東京タワーが望める芝増上寺の隣にある芝公園内には広島の「平和の灯」と長崎の「誓いの火」、それに福岡県八女市(星野村)の「平和の塔」の火を合わせた平和の灯が2005年から灯されている。

「誓いの灯と平和の誓い像」東京都品川区

 JRや東急が乗り入れる大井町駅の中央口前には1990年に広島の「平和の灯」と長崎の「誓いの火」を合わせて点火した「誓いの灯」と、その隣に非核平和都市宣言を記念して建立された平和の誓い像がある。

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「被爆子育て地蔵」東京都目黒区

 広島の爆心地からわずか100mの西蓮寺で被爆しながら奇跡的にお顔だけが残った子育て地蔵尊。1950年頃から目黒区の常円寺に祀られている。

「さくら隊原爆殉難碑」東京都目黒区

 移動演劇隊のさくら隊が巡業中の広島で被爆、亡くなった座長の丸山定夫さんや園井恵子さんら俳優9人の名が刻まれている。その中の一人、仲みどりさんは原子爆弾症第一号に認定された。殉難碑は徳川無声さんらにより1952年、五百羅漢寺に建立された。

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「平和記念碑」東京都中野区

 広島市より譲り受けた被爆庁舎の敷石を使って「憲法擁護・非核都市宣言」が記された平和記念碑は、1986年に平和の森公園に設置された。

「平和の灯」東京都世田谷区

 平和都市宣言5周年を記念して、1990年に広島の「平和の灯」と長崎の「誓いの火」を合わせた平和の灯が世田谷公園に灯された。前縁的なデザインは彫刻家向井良吉氏によるもの。

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「第五福竜丸」東京都江東区

 1954年3月1日、ビキニ環礁でアメリカが行った水爆実験で被爆したマグロ漁船の第五福竜丸は数奇な運命をたどり、1976年より東京都が運営する第五福竜丸展示館で核兵器廃絶を訴える。

「死の灰」東京都江東区

 第五福竜丸展示館には、実際に第五福竜丸が浴びた死の灰が展示されている。ビキニ環礁では第五福竜丸以外にも約850隻を超える日本の漁船が被爆したとされる。

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「久保山愛吉記念碑」東京都江東区

 1954年3月1日に第五福竜丸で被爆した無線長の久保山愛吉さんは、半年間の闘病の末に同年9月23日に亡くなった。享年40歳。「原水爆の被害者はわたしを最後にしてほしい」という久保山さんの遺言が記念碑に刻まれている。

「平和の灯」東京都国分寺市

 広島の平和の灯から分火された平和の灯が、1990年国分寺市役所にも灯され、その下には長崎の被爆瓦が展示されている。

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「被爆石モニュメント」東京都東村山市

 中央の柱は長崎の山里小学校の被爆旧校舎の一部(爆心地から600m)、2枚の敷石は広島市役所旧庁舎前の被爆敷石(爆心地から約1km)。1989年、中央図書館前に設置して核兵器廃絶平和都市のシンボルとした

「パンプキン爆弾」(任務番号No.1)東京都中央区

 原爆投下にそなえた爆撃機の乗員訓練とデータ収集のため、1945年7月20日、クロード・イーザリー少佐を機長とするB-29(301号機)が皇居を目標にパンプキン爆弾(模擬原爆)を投下、東京駅八重洲口の外堀(写真がその場所)に着弾して死者1人、負傷者62人の被害があった。

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「パンプキン爆弾」(任務番号No.11)東京都西東京市

 1945年7月29日、武蔵野市にあった中島飛行機武蔵製作所を狙って7297号機が投下したパンプキン爆弾(模擬原爆)は目標を大きくそれて西東京市(旧・保谷市)柳沢地区に着弾、死者3人、負傷者9人の被害があった。

関東・甲信越(神奈川県)

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原爆犠牲者慰霊碑と平和記念塔」 神奈川県鎌倉市

 大船観音寺の境内には神奈川県原爆被災者の会が建立した原爆犠牲者慰霊碑(写真右)があり、広島の爆心地近くの西蓮寺から地蔵土台石が、また長崎からは浦上天主堂の被爆石が寄贈された。毎年9月末には、この慰霊碑の前で神奈川県在住の被爆者が集い、慰霊祭と追悼式が行われる。
 慰霊碑の横には当時の長洲一二神奈川県知事の揮毫による平和記念塔(写真左)も建てられ

「原爆の火」神奈川県鎌倉市

 大船観音寺の原爆犠牲者慰霊碑前には原爆の火の塔があり、広島原爆の残り火が犠牲者の冥福と平和のへの願いを込めて燃え続けている。

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「平和の灯」神奈川県藤沢市

 藤沢市の市役所新館にも「広島平和の灯」が2011年10月1日から灯されている。案内板には『藤沢市核兵器廃絶平和都市宣言に込められた核兵器廃絶と恒久平和の実現に向けた強い願いを市民の皆様とともに未来に継承していくため、藤沢市民の平和のシンボルとして広島平和記念公園の「平和の灯」から採火し平和の誓いの火として灯し続けます』と記されていた。

関東・甲信越(長野県)

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「ピカドン食堂」長野県松本市

 広島で24歳の時に被爆した被爆者が1961年に核兵器の廃絶と平和を願って始めたピカドン食堂信州大学の正門前にある。自慢のカツ丼は学生でも腹一杯になるボリュームだ。もちろん名前の由来は「ピカッ」と光った後に「ドン」と爆音が轟いたという原爆に由来する。
 原爆の後障害に苦しみながらも「今日の聞き手は明日の語り手」と自らの被爆体験を語り続けながら被爆者補償と核廃絶運動に奔走したが、2009年に帰らぬ人となった。

 

関東・甲信越(新潟県)

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「パンプキン爆弾」(任務番号No.3)新潟県長岡市

 1945年7月20日午前8時13分、B-29(354号機)が投下した模擬原爆(パンプキン爆弾)は、目標の工作機械を製造していた津上安宅製作所を大きく逸れて畑に着弾。近くにいた20歳と15歳の兄弟を含む4人が死亡、5人が負傷した。爆心地には直径15〜20m、深さ5mのくぼみができ、住宅全壊2戸のほか地区全戸が被害を受けた。2005年(平成17年)、犠牲者の慰霊と平和を願って地域住民有志が模擬原子爆弾投下地点跡地の碑を建立した。

「「パンプキン爆弾」(任務番号No.9)新潟県刈羽村

 JR東日本越後線の荒浜駅は1日平均の乗降客数が100人前後の無人駅。駅周辺には田植えが終わったばかりの田んぼが広がる。1945年7月26日、B-29(291号機)により模擬原爆(パンプキン爆弾)が荒浜駅近くに投下され、女子2人が亡くなり、6人が負傷した。ここから約1km先には世界最大の発電量を持つ東京電力柏崎刈羽原子力発電所がある。爆心地に原発立地とは何の因果だろう。

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「パンプキン爆弾」(任務番号No.9)新潟県阿賀町

 新潟県東部にある旧・鹿瀬町(現・阿賀町)は、日本最大級の河川水流量を誇る阿賀野川の中流域にあり、町の95%を山林が占める。ダム建設による水力発電を利用した化学肥料工場(後の昭和電工鹿瀬工場)の立地で発展した。1945年7月26日、B-29(301号機)により模擬原爆(パンプキン爆弾)が鹿瀬工場を目標に投下されたが、工場を外れて阿賀野川右岸に着弾、2人の負傷者を出した。戦後、四大公害のひとつとなる鹿瀬工場から流れ出た水銀廃液を原因とする「新潟水俣病」が発生、公式に確認されてから昨年で50年となる現在も認定訴訟が続いている。

東海・北陸(静岡県)

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「折り鶴の祈り」と「平和の子の像」静岡県伊豆市

 西伊豆にある日蓮宗妙蔵寺の境内には、広島で被爆後に白血病を発症して12歳で亡くなった佐々木禎子さんと、15歳で被爆死した長崎の林嘉代子さんのブロンズ像が建立されている。
 写真左は長崎の林嘉代子さんをモデルにした「折り鶴の祈り」。爆心地から500mの城山国民学校(当時)で学徒動員中に被爆死した林嘉代子さんは15歳。母親が何日も原子野を捜し歩いて、やっと変わり果てた娘を見つけたのは被爆後21日が経った8月30日だった。
 写真右は広島の佐々木禎子さんをモデルにした「平和の子の像」。2歳の時に爆心地から1.7kmで被爆した佐々木禎子さん。被爆から10年経った12歳で白血病を発症、入院中のベッドで回復を願って折り続けた千羽鶴は2000羽を超えた。その願いもむなしく1955年(昭和30年)10月25日、帰らぬ人となった。広島平和記念公園には同級生の募金活動で制作された原爆の子の像がある。

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「パンプキン爆弾」(任務番号No.9)静岡県島田市

 1945年7月26日、富山市の軍需工場への空襲が天候不良のため代替目標だった島田市に変更。296号機が投下した一発のパンプキン爆弾(模擬原爆)が島田駅近くの市街地に着弾、死者49人、重軽傷者約200人、壊滅家屋数百戸という大惨事を生んだ。1981年、投下地点には慰霊のために平和之礎が建てられた。

「パンプキン爆弾」(任務番号No.9)静岡県焼津市

 島田市と同く1945年7月26日、東海道線の焼津操車場を目標に298号機が投下したパンプキン爆弾(模擬原爆)が瀬戸川河口右岸に着弾、6戸が全壊、6人が負傷した。当時の面影を残す物は何も残っていない。日本最大級の遠洋漁業の拠点となっている焼津港からも、戦時中約100隻の漁船が輸送船や監視船として徴用され、500人もの漁師が命を落とした。そしてわずか9年後、焼津港を母港とする第五福竜丸がアメリカによるビキニ環礁での水爆実験で被爆、広島、長崎に次いで第三の被爆者を生んでしまった。

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「パンプキン爆弾」(任務番号No.9)静岡県浜松市

 1945年(昭和20年)7月26日午前8時45分、パンプキン爆弾(模擬原爆)が軍事目標とは無縁の浜松市内の将監地区(写真の左岸)に投下された。「直径50メートル位の大穴があき、穴の深さは10数メートルもあり、土砂が周囲の田畑に飛び散った」との証言がある。死傷者の記録はないが、半壊72戸、小壊83戸の被害が報告されている。
 
第21爆撃集団司令官として日本本土の空襲を指揮したカーチス・ルメイ少将は第一目標を攻撃できない時には浜松に爆弾を投下するよう指示していた。浜松は爆弾を始末するゴミためだったとの発言も残る。パンプキン爆弾も第一目標は富山地区だったが、雲で目標が視認できなかったため帰投の途中に浜松へ投下された。

東海・北陸(富山県)

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「パンプキン爆弾」(任務番号No.4)富山県富山市

 日本海側最大の北陸工業地帯へと発展した富山も戦時中は軍需工場となったため、1945年8月1日に米軍の大空襲を受けて市街地は壊滅状態になった。それに先立つ7月20日、3機のB29がパンプキン爆弾(模擬原爆)を投下。不二越鋼材工業の東富山製鋼所を狙った296号機のパンプキン爆弾は隣接する八幡社に着弾、通勤途中の工員を巻き添えにして死者47人、負傷者40人を超える被害を出した。2014年、境内に爆心地碑が建立された。

「パンプキン爆弾」(任務番号No.4)富山県富山市

 同じく1945年7月20日、298号機が日満アルミニウム工場(現・昭和電工)を狙って投下したパンプキン爆弾(模擬原爆)は、機械的な失敗により目標を1.2kmも外れて着弾、近くにあった飯場が大きな被害を受けている。着弾した森地区は閑散な住宅地で、戦争とは無縁の市民が暮らしていた。

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「パンプキン爆弾」(任務番号No.4)富山県富山市

 1945年7月20日、299号機が富岩運河沿いにある日本曹達富山製鋼所(現・太平洋製鋼)を狙ってパンプキン爆弾(模擬原爆)を投下。被害は不明。現在、富岩運河は公園として整備され、富山市民の憩いの場となっている。

「パンプキン爆弾」(任務番号No.9)富山県富山市

 1945年7月26日、20日の空襲で戦果が挙げられなかったため再び6機のB29が富山に向かったが、上空が雲に覆われていたため5機が目標を視認できず、帰途にそれぞれ焼津、島田、浜松、名古屋、大阪へパンプキン爆弾(模擬原爆)を投下。257号機のみが富山市内へ投下できたが、目標の日満アルミニウム工場(現・昭和電工)を大きく外れ、住宅地に着弾。死者16人、負傷者は50人を超える惨事を生んだ。この平和祈願之碑は個人が「再びこのようなことの起こることはなく未来永遠に人類が平和でありますことを請い願って」建立したものだ。このB29は8月9日に長崎へ原爆を投下したボックスカーだったとされる。

東海・北陸(石川県)

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「平和の子ら」石川県金沢市

 金沢市街が一望できる卯辰山公園に1998年建立された原爆犠牲者追悼碑「平和の子ら」。碑文には、「忘れまい広島・長崎を ふたたびつくるまい被爆者を 核のない平和な世界を子どもらに」と記されていた。石川県には北陸地方で最も多い105人(2014年3月末現在)の被爆者が今も暮らしている。

東海・北陸(愛知県)

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「パンプキン爆弾」(任務番号No.9)愛知県名古屋市

 1945年7月26日、名古屋市昭和区の現・日本赤十字八事病院前の交差点付近にもB-29(292号機)がパンプキン爆弾を投下、死傷1人、負傷者多数を出している。パンプキン爆弾は模擬原爆だが約4.5トンもの通常火薬が装填され、地上で爆発すれば多くの人々を殺傷する。

「パンプキン爆弾」(任務番号No.17)愛知県春日井市

 名古屋市に隣接する春日井市にもパンプキン爆弾(模擬原爆)が複数、投下されている。終戦前日の8月14日に投下され、死者7人、負傷者多数の被害が出た。ここにあった陸軍最大規模の名古屋造兵廠鳥居松製造所が目標となったようで、戦後、空襲による犠牲者の慰霊碑が建てられた。

近畿(滋賀県)

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「パンプキン爆弾」(任務番号No.7)滋賀県大津市

 大津市にある東レ滋賀事業場(旧・東洋レーヨン石山工場)には、1945年7月24日、B-29(299号機)によってパンプキン爆弾(模擬原爆)が投下され、死者16人、負傷者104人という滋賀県最大の空襲被害を被った。パンプキン爆弾は、滋賀の他、東京、茨城、福島、新潟、富山、岐阜、静岡、福井、山口、愛知、愛媛、京都、大阪などに約50発が投下され、大勢の市民が犠牲になっている。原爆の被害は広島、長崎の被爆地だけにとどまらない。

近畿(京都府)

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原爆死没者慰霊碑」京都府京都市

 京都市東山にある霊山観音の境内には、1991年に京都府原爆被災者の会が建立した慰霊碑があり、毎年7月の最終日曜日に原爆物故者慰霊式典を開催している。「慰霊」の揮毫は裏千家家元の千宗室による。また傍らの案内には「謹んで永遠の平和を祈念し原爆の犠牲となられし御霊に捧ぐ」と記されていた。

近畿(大阪府)

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「パンプキン爆弾」(任務番号No.9)大阪府大阪市

 大阪市東住吉区のビルの片隅にひっそりと建つ「模擬原子爆弾投下跡地碑」。丸くずんぐりとした形とオレンジ色に塗られた外観からパンプキン爆弾と呼ばれた模擬原爆が、1945年7月26日、B-29(303号機)により大阪市の田辺地区に投下された。ここには戦時中も軍需工場などひとつもなかった。模擬原爆とはいえ通常火薬1万ポンド(約4.5トン)が詰まった大型爆弾であり、一般市民ばかり80人もの死傷者が出た。

近畿(和歌山県)

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「パンプキン爆弾」(任務番号No.12)和歌山県有田市

 有田みかんで有名な和歌山県有田市。その初島地区にある善福寺裏に1945年7月29日、B-29(7304号機)が一発のパンプキン爆弾(模擬原爆)を投下した。幸いなことに人家がまばらだったため、人的被害はなかった。善福寺は周囲をミカン畑に囲まれた山裾の静かな寺で、軍需目標とは無関係だった。

中国・四国(岡山県)

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岡山市原爆被爆死没者供養塔」岡山県岡山市

 広島と長崎の被爆者の霊を供養するために岡山市原爆被爆者会が1976年に建立。岡山市街が一望に臨める東山霊園内の丘の上に建つ。

平和のつばさ」岡山県岡山市

 2000年の原爆被爆55周年に岡山県原爆被爆者会により南方公園に建立された。碑文には「永遠の願い 愛と平和を」「無限に広がっていく空間・・・・・そこに人類の永遠の平和を願う折鶴の形が現れてくる」と刻まれている。下りの新幹線の車窓からも見える。

中国・四国(島根県)

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「原爆慰霊碑」島根県松江市

 松江市北公園にある原爆慰霊碑は1996年に島根県原爆被爆者協議会が建立。広島に隣接する島根県からも多くの兵士や医療従事者、一般市民が救援や、親類縁者の捜索で入市被爆した。碑の横には広島で被爆したエノキの2世が葉を茂らせ

中国・四国(広島県)

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「原爆ドーム」広島県広島市

 1915年(大正5年)に広島県物産陳列館として建てられ、1921年には広島県立商品陳列所、そして1933年からは広島県産業奨励館と改称された原爆ドーム。被爆前は左右が3階建て、正面中央部は5階建てとなっており、上部には銅板の楕円形ドームが造形美を見せていた。被爆の惨状を思い出したくないと解体の声もあったが1966年に永久保存が決まり、人類史上初めての被爆禍を伝え核兵器廃絶を願うため、1996年にはユネスコの世界遺産にも登録された。

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「爆心地・島病院」広島県広島市

 T字型の相生橋を投下目標にしたとされる原爆は、この島病院上空で炸裂、患者や医師、看護師など約80人全員は跡形もなく消滅したといわれる。
『テニアン島から飛来した米軍機B-29「エノラゲイ号」から人類史上最初に投下された原子爆弾は、この上空約600mで炸裂しました。爆心直下となったこの一帯は約3,000〜4,000度の熱線と爆風や放射線を受け、ほとんどの人びとが瞬時にその生命を奪われました。
時に1945(昭和20)年8月6日午前8時15分のことでした。』:説明版より

「広島市街地模型」広島県広島市

 かつて広島平和記念資料館に展示されていた被爆直後の広島市街地。壊滅状態の市内の様子は決して誇張ではない。中央上部の赤球は地上約600mで炸裂した原子爆弾を表す。このとき爆心地周辺の地表の温度は3000〜4000℃にも達したという。また爆心地から半径2km以内の建物は自然発火して焼失してしまった。
 1945年8月6日午前8時15分、たった一発の原爆が約14万人の命を奪い、生き残った被爆者の多くは今も後障害に苦しんでいる。

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原爆死没者慰霊碑」広島県広島市

「碑文はすべての人が原爆犠牲者の冥福を祈り、戦争という過ちを再び繰り返さないことを誓う言葉である。過去の悲しみに耐え、憎しみを乗り越えて、全人類の共存と繁栄を願い、真の世界平和の実現を祈念するヒロシマの心がここに刻まれている」(説明版より)
 戦争には勝者も敗者もない。国家の過ちで多くの市民が血を流すだけだ。この碑文には様々な声が寄せられているが、二度と国家に過ちを犯させないために市民の決意が示されたものだと思う。

「平和の灯」広島県広島市

「核兵器が地球上から姿を消す日まで燃やし続けよう」と1964年8月1日から燃え続ける。伊勢神宮や東西両本願寺、カトリックなど16の宗教団体から寄せられた宗教の火と、全国の工場地帯からの集められた産業の火が元になっている。

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原爆の子の像」広島県広島市

 2歳で被爆して12歳で亡くなった佐々木禎子さんの死を悼み、「原爆で亡くなったすべての子どもたちのために慰霊碑をつくろう」と同級生が呼びかけに応じた全国の少・中・高校生らの募金活動で建てられた。像の下には「これは僕らの叫びです。これは私たちの祈りです。世界に平和を築くための」という誓いの言葉が刻まれている。写真右は「鶴を千羽折ると病気が治る」と回復を祈りながら薬の包み紙などで千羽鶴を折り続けた佐々木禎子さんの折り鶴。(広島平和記念資料館)

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原爆供養塔」広島県広島市

 氏名不詳や一家全滅などで供養されることなく、散乱したままの遺骨を市内から集めて納めた納骨堂。推定で7万柱の遺骨が納められており、現在も身寄りを探している遺族がいるという。

韓国人原爆犠牲者慰霊碑」広島県広島市

 死者の霊は亀に乗って昇天するという韓国の故事に倣って建立された。当時、10万人以上の韓国・朝鮮の人々が広島に居住しており、3万人以上が被爆し、約2万人が死亡したと言われる。強制連行や徴用がなければ犠牲にならないですんだ人々だ。

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市立高等女学校慰霊碑」広島県広島市

建物疎開で動員されていた広島市立高等女学校の少女たちと職員676人全員がここで亡くなった。米軍占領当時の日本では原爆や被爆といった文字が使えず、慰霊碑を建てるのにも苦労した。ここには原子力エネルギーの公式であるE=MC2(二乗)だけが彫られている。

峠三吉詩碑」広島県広島市

 1951年に発行された原爆詩集の序文が刻まれている。爆心地から3kmで自らも被爆した峠三吉は積極的に平和運動に取り組んでいたが、詩集発行の2年後、36歳で病に倒れ帰らぬ人となった。

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「被爆校舎」広島県広島市

 はだしのゲンにも描かれた本川小学校(写真左)は、爆心地から410mという至近距離にあったため、約400名の児童と10名の教職員が亡くなり、奇跡的に生き残ったのは2人だけという。昭和63年まで使っていた被爆校舎の一部を残し平和資料館としている。
 同じく爆心地から460mにあり外郭のみが残った袋町小学校(写真右)は、翌日には避難場所・救護所となったが、
近年、漆喰の中からは「生死不明 オ知ラセヲ」「姉様江」など煤けた壁にチョークで書かれた伝言が見つかっている。現在は平和資料館として一般に公開している。

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「腕時計」広島県広島市

 爆心地から1700mで被爆した兵士が身につけていた腕時計。広島に原爆が投下された8時15分で止まったまま(広島平和記念資料館)

弁当箱」広島県広島市

 滋くん(13歳)は学徒動員として爆心地から600mの建物疎開の作業中に被爆、即死だった。遺体の傍らには熱線で中身が炭化した弁当箱があった。(広島平和記念資料館)

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被爆者の衣類」広島県広島市

 左から正一さんの腹巻(爆心地から800m:9月1日に死亡)、正昭くん14歳の学生ズボン(800m:8月10日に死亡)、敏子さん34歳のモンペとシュミーズ(1200m:8月10日に死亡)など。(広島平和記念資料館)
 広島平和記念資料館は「原子爆弾による被害の実相をあらゆる国々の人々に伝え、ヒロシマの心である核兵器廃絶と世界恒久平和の実現に寄与するため設置」されたもので、被爆者の遺品や被爆の惨状を示す写真や資料など二万点を超える収蔵品を管理している。

被爆再現人形」広島県広島市

 説明板によれば生死をさまよう〜原子爆弾は地上600mの上空で目もくらむ閃光を放って炸裂し、爆心地から半径2kmに及ぶ市街地の建物が跡形もなく壊され焼き尽くされました。人が身につけていた衣服は、強烈な熱線によって焼け焦げました。ほとんどの人々は、血みどろになったポロポロの衣服を、わずかに身にまとい、瓦れきの街を逃げ惑ったのです。
「現実はあんなものではない」という被爆者もいれば、「子どもがこわがる」という母親もいる。この被爆再現人形について広島市は撤去を予定しており、市民から反対の声が数多く寄せられている。被爆者から直接体験を聞ける時間も残りわずか、どのように記憶を受け継いでいくかは国民レベルでの議論も必要だろう(広島平和記念資料館)

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消えずの火」広島県広島市

 宮島(厳島)の弥山にある霊火堂には、大同元年(806年)に弘法大師が修法を行って以来、1200年以上途絶えずに燃え続ける護摩の火「消えずの火」が守られており、広島平和記念公園にある平和の灯の元火にもなった。

縮景園の原爆慰霊碑」広島県広島市

 昭和62年(1987年)に1枚の写真を手がかりに、縮景園内に埋葬されていた64体の原爆犠牲者の遺体が発見された。原爆投下から70年を経た今も、広島市内には人知れず原爆犠牲者の骸が眠っているのだ。戦後は決して終わっていない。

中国・四国(徳島県)

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「パンプキン爆弾」(任務番号No.14)徳島県徳島市

 徳島市では1945年7月4日にB-29による大空襲を受け、3000人の死傷者と70000人とも言われる被災者を出している。市街地の6割以上が焼失しているにもかかわらず、長崎に原爆が投下される前日の8月8日88号機によって1発のパンプキン爆弾(模擬原爆)が落とされた。県立博物館の学芸員などが調査を行ったが、現地に資料は残っておらず、残念ながら被害状況など詳細は今も不明のままだ。写真は徳島市のシンボル「眉山」。標高277mながら万葉集に詠まれるなど古くから人々に愛されてきた。今から70年前、眉山は空襲で逃げ惑う人々を見続けていたのだろう。

九州(福岡県)

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平和記念碑と長崎の鐘」福岡県小倉市

 1945年8月9日早朝、原爆「ファットマン」を搭載したB-29 「ボックスカー」が小倉上空にさしかかったが、投下目標が目視できずに第二目標の長崎へ向かった。そして11時2分に長崎上空で原爆が炸裂。「北九州市民はいたましい被爆の霊を慰め、平和への切実な願いをこめて」1973年に平和記念碑が建立された

平和の塔と原爆の火」福岡県八女市

 星野村(現・八女市)から出征していた方が広島で被爆後、叔父の形見として焼け跡で燻る火を懐炉に移して村に持ち帰り、23年間家族で守り続けてきた。1968年より星野村が引き継いだ原爆の火は、その後、全国に分火されて平和の灯(火)となっている。被爆50周年の1995年には世界の恒久平和と原爆犠牲者の冥福を祈念するため平和の灯を上部に戴く平和の塔も建立された。

九州(長崎県)

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平和祈念像と平和の泉」長崎県長崎市

 平和公園には、北村西望による平和祈念像(写真左)が1955年に建立された。像の台座には「あの悪夢のような戦争 身の毛のよだつ凄絶悲惨 肉親を人の子を かえり見るさえ堪えがたい眞情 誰か平和を祈らずにいられよう 茲に全世界平和運動の先駆として 此平和祈念像が誕生した 山の如き聖哲それは逞しい男性の健康美 全長三十二尺余 右手は原爆を示し左手は平和を 顔は戦争犠牲者の冥福を祈る 是人種を超越した人間 時に佛時に神 長崎始まって最大の英断と情熱 今や人類最高の希望の象徴」という北村西望のメッセージが記されている。
 1969年に造られた平和の泉(写真右)には平和の象徴である鳩のはばたきをイメージした噴水が刻々とその姿を変えている。その中央に置かれた御影石には「のどが乾いてたまりませんでした 水にはあぶらのようなものが 一面に浮いていました どうしても水が欲しくて とうとうあぶらの浮いたまま飲みました」という9歳の女の子の詩が刻まれている。

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爆心地公園」長崎県長崎市

1945年8月9日午前11時02分、この上空約500mで原爆が炸裂、死者74000人、負傷者75000人を出した。毎年8月9日、平和祈念像がある平和公園では長崎市が主催する平和祈念式典が、また爆心地公園では市民団体が主催する平和祈念集会が開かれている。
 ところで、ここに建つ黒御影石の三角柱は「
原子爆弾落下中心地碑」とあるが日本語の使い方が間違っている。原爆は自然に「落下」してきたものではなく、アメリカが意思を持って「投下」したものだ。「原子爆弾投下中心地」が正しいだろう。当時の長崎市長がアメリカに遠慮して書き換えたとの話も聞いたが真意は定かではない。

 

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浦上天主堂」長崎県長崎市

 1945年8月9日、浦上天主堂(浦上協会)では12000人の信者のうち8500人が亡くなった。その時間、天主堂には聖母被昇天の準備で司祭2人と信者24人がいたが、全員即死だった。原爆により瓦礫と化した浦上天主堂については保存運動もあったが、アメリカへの配慮を優先して瓦礫は撤去され、側壁の一部(高さ13m、幅3m)が爆心地公園に移設された。現在の教会は1959年に再建されたものだ。 
 
浦上教会(浦上天主堂)の小聖堂に祭られている被爆マリア像無原罪の聖母の像(写真左は、木造でありながら奇跡的に頭部のみが瓦礫の中から発見された。痛々しいお顔のマリア様だが、そばにいると深い慈愛に抱擁されている感覚があった。また天主堂に隣接するピエタには被爆資料コーナーがあり、原爆で破壊された聖人像(写真右)が悲しいまなざしを投げかけている。

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長崎原爆朝鮮人犠牲者追悼碑」長崎県長崎市

 1979年8月9日に〝原爆で殺された名もない朝鮮人のために、名もない日本人が贖罪の心をこめて〟平和公園の一角にこの追悼碑が建立された。
 毎年8月9日には早朝追悼集会が開かれ、200人を超える市民が集う。長崎市民、それに朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)籍、大韓民国(韓国)籍の人々が隣り合わせで平和を祈る姿に38度線は存在しない。

白山墓地」長崎県長崎市

 山里小学校(爆心地から600メートル)の上にある白山墓地は墓石の多くが十字架という伝統的なキリシタン墓地だ。ここでは家族全員の命日が1945年8月9日と刻まれているものや原爆死、原爆逝去と刻まれた墓石が多い。

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日本二十六聖人記念碑と記念館」長崎県長崎市

 12歳の少年を含む26人のカトリック信者は豊臣秀吉によって磔の刑に処せられ、日本初の殉教者として1862年に聖人に加えられた。100年後の1962年、殉教跡地に祈念碑と記念館が建てられたが、隣接する聖フィリッポ教会の尖塔のモザイク壁に使われた陶片は、殉教者達が京都から長崎まで曳かれた道筋で集めたもので、その中には長崎の被爆で割れた陶片もあるという。

浦上刑務所中国人原爆犠牲者追悼碑」長崎県長崎市

 長崎へ投下された原子爆弾では日本人だけではなく、韓国・朝鮮人や中国人、それに捕虜となっていたアメリカやイギリス、オランダの兵士など外国籍の人々も数多く被爆した。
 爆心地近くにあった浦上刑務所では、職員18人をはじめ受刑者及び刑事被告人81人(うち中国人32人、朝鮮人13人)全員が即死。元長崎市長だった故本島等さん(写真)が中心となってこの慰霊碑が建立された。「この地で原子爆弾により非業の死を遂げた中国の方々を追悼するとともに非戦と核廃絶を誓ってこの碑を建立する」と碑文にある。

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山王神社の片足の鳥居」長崎県長崎市

 爆心地から800mにあった山王神社の鳥居は左半分が倒壊、右半分だけが奇跡的にバランスを保ったまま残った。爆心地に向いた鳥居の表面には高温の熱線と強烈な爆風の跡が刻まれている。

県立長崎工業学校慰霊碑・弔魂」長崎県長崎市

 1945年8月9日、同校にあった木造校舎6棟が一瞬にして倒壊全滅。校長以下教職員29名、生徒192名が亡くなった。碑の横には、犠牲となった教職員29人、生徒198人、計227人の名前が刻まれている。余談だが、福山雅治の母校でもある。

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坂本町民原子爆弾殉難之碑」長崎県長崎市

 約700人の町民が原爆の犠牲になった坂本町の慰霊碑は、倒壊した山王神社の鳥居の片足を譲り受けて慰霊碑を建立した。長崎の町中には様々な慰霊碑が市民によって建てられ、今も供養が続けられている。

「岡まさはる記念長崎平和資料館」長崎県長崎市

 日本二十六聖人記念碑のすぐ近くには、原爆の被害だけではなく、再び過ちを繰り返さないために日本のアジア侵略に向き合い、市民の手によって建てられた岡まさはる記念長崎平和資料館がある。牧師だった故岡正治さんは朝鮮人被爆者の実態調査と救援に奔走し、「韓国・朝鮮人被爆者は日本人とは異なる二重三重の被害者であるが故に、日本人にもまして早急に手厚く救済されるべきだ」と常に弱者の立場、差別され、虐げられる人々の立場に立って活動した。

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如己堂」長崎県長崎市

 自らも爆心地からわずか700mの長崎医大で被爆しながら負傷者の治療を続け、その後、白血病が悪化する中で原爆障がいの研究を続けた永井隆博士が住んだ如己堂。(写真左)永井博士は長崎の鐘」や「この子を遺して」の著書もある。国際墓地には原爆で亡くなった愛妻の緑さんとともに眠る。(写真右)
 ただ永井博士は長崎の原爆禍について「原子爆弾が浦上に落ちたのは大きな御摂理である。神の恵みである。浦上は神に感謝をささげねばならぬ」と述べており、長崎市民の間に大きな波紋を呼んだことも事実として記しておきたい。

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ファットマン模型」長崎県長崎市

 ファットマンは全長3.66m、最大直径1.62m、重量4670kgのプルトニウム型原爆。B-29爆撃機ボックスカーによって長崎へ投下された。広島に落とされたウラン型原爆のリトルボーイより破壊力は大きいが、長崎の地形もあって死者約74000人、負傷者約75000人と広島より被害は押さえられた。(長崎原爆資料館)

柱時計」長崎県長崎市

長崎に原爆が落ちた11時2分で止まったままの柱時計(長崎原爆資料館)

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ロザリオ」長崎県長崎市

原爆の熱線で溶けて固まったロザリオ(長崎原爆資料館)

被爆者の衣類」長崎県長崎市

高温で溶けたガラス瓶の中には人間の手首の骨が残っていた(長崎原爆資料館)

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「大村海軍病院顕彰碑」長崎県大村市

 原爆投下後、救援列車で運ばれた数千七百余名にのぼる被爆者を受け入れ治療にあたった大村海軍病院。跡地は国立長崎医療センターとなり、その入口には戦争犠牲者と原爆犠牲者の鎮魂のための顕彰碑が建立されている。左には大村海軍病院の正門門柱が残る。

九州(熊本県)

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「原爆犠牲者の碑」熊本県熊本市

 小峰墓地(旧陸軍墓地)には1995年8月に建立された原爆犠牲者の碑がある。碑文には「熊本には、なお二千四百余名の被爆者(筆者注:2016年3月現在1158名)が後遺症と闘いつつ、人類が再び同じ被害を受けることがないことを願って活動してきたが、原爆投下五十年のいま、原爆死没者の冥福を祈るとともに、あらためて核兵器廃絶の一日も早い実現と地球上に恒久平和の到来することを願って、この碑を建立する」とあった

沖縄

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「平和の火」沖縄県糸満市

 沖縄戦において米軍が最初に上陸した座間味村で採取した火と広島の「平和の灯」、長崎の「誓いの火」を合火して1991年から灯し続けた火を、1995年6月23日の沖縄慰霊の日に平和祈念公園の平和の広場へ移した。

「平和の礎」沖縄県糸満市

 刻銘碑には国籍や出身、軍人民間人を問わず、沖縄戦で亡くなった方々、そして沖縄県出身の戦没者や被爆者として亡くなった一人ひとりの名前が刻まれている。その数は昨年6月現在、24万1281人となっている。

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